トヨタの税率は低いのか?

トヨタは利益の10%程度しか税金を払っていない、という記述を某所で見かけた。この手の胡散臭い話はいろんなところで見るのだが、まず頭に入れて置かなければならないのは、トヨタグループが日本にいくら税金を収めているのかは開示されていないということだ。決算書を見てもこれは分からない。だからそれが低すぎる、もっと上げるべきだ云々という議論も意味不明な空中戦である。

 法人税は活動拠点のある国で課税される。トヨタの米国子会社は米国で納税し、日本には納税していないはずである。これはグローバル企業優遇ではない。逆に外国企業の日本子会社は日本で納税しているからだ。活動拠点のある国で課税するというのは国際的なルールである。

 親会社としてのトヨタは国内外におびただしい数(500以上!)の子会社を持っている。トヨタグループ全体で日本にどれだけ税金を収めているかを知るには、そのうち国内の会社に課された税金だけを足し合わせなければならない。ところが決算というのは基本的に海外の子会社をも含んだ連結全体と、国内の子会社をも含まない親会社単体の2つしか開示されない。国内非上場子会社の納税額については知るすべがない。株式会社は(非上場であっても)決算広告を出さなければならないと会社法で定められているが死文と化している。みんな守らないし、それで誰かが困ることもない。トヨタグループがクソマジメなら、官報をひっくり返せばひょっとしたら非上場子会社の決算公告が見つかる可能性はある。

 念のため言っておくと、以上の話はトヨタが連結納税制度を利用しているかどうか(実際しているのだが)とは関係がない。連結納税というのは国内のグループ会社の中で欠損金を融通できるというだけの話であり、税額の計算は各社の単体の決算をベースに行われる。連結納税を利用したからと言って海外子会社を連結した利益に課税するということにはもちろんならない。

 仕方がないので親会社単体の2018年3月期の決算を見ることにする。日本の法人税等の実効税率は理論的には約30%のはずであり、これは国際的にも決して低い水準ではない。ここで実効税率というのは法人の利益に対してどれだけ税金を払っているかということで、利益に関係なく支払う固定資産税などは、これとは別にさらに払っている。

 で、トヨタの法人税等は404,900百万円、税引前当期純利益が2,238,140百万円。税率は18%。ちょっと低い気がするが、これは今、わざと間違った計算をしたからだ。トヨタの損益計算書には主に子会社からと思われる受取配当金が802,702百万円計上されている。受取配当金は益金不算入、つまり税金がかからないので除外しなければいけない。

 なんか大企業優遇の匂いがするって? そうではない。子会社から受け取った配当金に対する分の税金は子会社の方で払っているのだ。もし受取配当金に課税されたら子会社と親会社で同じ利益に対して税金を二回取られることになるし、企業はそれを避けるために子会社を合併して支店にするだろう。子会社にするか支店にするかで税額が変わるのはもちろん馬鹿げている。

 受取配当金以外にも税務上の調整はあるだろうけど、損益計算書から拾える大きな数字はこんなところだ。受取配当金を除いたトヨタの税引前利益は1,435,438百万円であり、法人税等404,900百万円をこれで割ると28%。理論上の実効税率にほぼ近い。まあこんなもんでしょう。世の中は思いの外、というか普通に思ったとおりに常識的にできているものだ。悪の巨大企業なんてそう見つからないですよ。*1

*1:真面目な話をすると、税金逃れというのは例えば「経営指導料」みたいな謎の料金を海外子会社に対して支払うというような利益の付替えで行われるのだ。それを摘発する税制もある。決算書を見てもわからないけどね。

競馬と選択と集中

togetter.com

当たり馬券だけを買い続けることはできない。何枚かの当たり馬券を手にした人は何枚かの外れ馬券を手にした人でもあるだろう。けれどそのことは、彼が賭け金を複数の馬券に分散させる戦略を採ったことを意味しない。彼はひとつひとつのレースではただ一種類の馬券しか買わなかったかもしれないからだ。上の記事は博打で常に勝ち続けることはできないという当然の事実と、賭け金を分散させることの有効性とを混同している。

 競馬については、実は分散投資戦略には意味がない。馬が二頭だけの単純な競馬を考える。馬Aのオッズは馬Bのオッズの2倍とする(すなわち馬Aのオッズは3、馬Bのオッズは1.5)。このとき馬Aと馬Bに1:2の割合で賭けることが完全なパッシブ戦略となる。この戦略に100円を賭けたとき期待される配当は33*0.33*3+67*0.67*1.5=100である。競馬は客同士が賭け金を取り合っているだけなので、パッシブ投資から期待されるリターンは必ずゼロ(胴元の取り分を考慮すればマイナス)なのだ。完全に分散投資された馬券とは期待リターンを生まないリスクの塊である。リスクそれ自体を愛好しているのでなければ、誰がそんなものを買うだろうか?*1 正のリターンを期待するためには他の客を出し抜かなければならない。例えば馬Aの適正なオッズが馬Bの3倍だと予想する客は、パッシブ戦略に比べて馬Bに対する賭け金の比率を増やすことになる。そのような選択と集中だけが(そのようなことが可能であれば)競馬から正の期待リターンをもたらす。*2 *3

*1:期待リターンゼロのリスクの塊が買われる場合は存在する。デリバティブである。あるリスクを相殺するようなリスクを持つ証券はヘッジ目的に利用できる。もちろん馬券にはそんな使い道はない。

*2:株式市場に対しては分散投資は有効な戦略だけれど、アクティブリターンに限って考えると話は競馬と変わらなくなる。市場インデックスを上回る超過リターンを獲得するには他の市場参加者を出し抜くしかない。インデックスを買うだけなら誰でもできるので政府がやる意味はない。政府が民間の市場参加者を出し抜けると考える理由もない。だからクールジャパンなんとやらをはじめ官製ファンドは必然的に無意味か有害である。

*3:大学に配分される研究資金については、分散投資という考え方が意味を持つのかということからして問題である。競馬の場合はオッズの逆数によって、株式市場の場合には時価総額の比によってパッシブ投資比率を観念できた。では大学の研究資金の投資比率はどのように決めればいいのか。応募書類の数で均等に按分? まさか。大部分が税金によって担われる大学の研究については市場価格が存在しないので、投資比率をパッシブなやり方で決定することができない。薄く広くといったところで、それはそういう恣意的な選択と集中でしかありえない。研究資金の配分を株の分散投資戦略との類比で正当化することは困難である。

貯蓄から投資へ?

b.hatena.ne.jp

家計部門が預金を株式に持ち替えるには次の操作が行われる:企業部門の株式発行に応じて*1家計は預金の一部を企業部門に振込み、企業部門は振込まれた預金で銀行借入を返済*2する。さて何が起こるか?

 特段何も起こらない。企業価値は資本構成と無関係なので、この操作は企業部門の価値に影響しない。ただ預金を株式に持ち替えた家計はそうでない家計よりも大きなリスクと期待リターンに直面する。要するに家計による預金か株式かの選択は家計間でのリスクエクスポージャーの調整であって、個人が投資をしないから経済が活性化しないという話はナンセンスである。*3

*1:そうではなく他の家計から株式を購入した場合、家計間で預金と株式が交換されるだけなので、家計部門全体の金融資産構成を変化させることはできない。

*2:なお家計部門から預金(=銀行に対する債権)が振り込まれた時点で企業部門の銀行に対する純債務は既に減少しているので返済の操作は実は本質的ではない。

*3:だから家計部門の預金残高が多いのを見て預金が死蔵されているとか言うのも普通に間違っている。

資本主義が長期の利益追求を可能にする

市場ないし資本主義経済は短期的な利益しか追求しない、としばしば言われる。そしてまたしばしば、だから基礎研究やインフラ、都市開発といった長期の投資は政府が実施すべきだ……と続く。*1

 このような偏見を人々がどこで身につけているのか、僕には不思議で仕方がない。身の回りの企業活動を思い浮かべてほしい。タンカーや高炉は20年以上も稼働し続けるし、生命保険や個人年金は人間の一生涯を視野に入れて運営されている。

 インフラだって、戦前の電力は1880年代から1930年代の長きにわたって自由競争によって供給されていた。*2そのへんのマンションやビルにしても、投資の回収に30年以上要するものが珍しくないだろう。

 どうして長期の投資が可能になるのだろうか? 仮に僕の余命が10年であるとして、財産を相続すべき身内もいないとして、30年掛かりで投資を回収する事業を興すことには意味がないと思われるかもしれない。

 だがそうではないのだ。事業の価値とは、その事業が将来にわたって稼ぎ出す超過利益の現在価値に他ならない。*3僕はただ自分の事業が、超過利益を今後も生み続けることを投資家たちに信じさせればいい。僕は事業を市場で売却することで、その事業が将来生み出す超過利益を、売却時点でただちに手にできる。

 もし僕が短期的な利益の上昇を目論むなら、僕は設備の修繕や更新を怠るかもしれない。けれどその行為は将来の超過利益を減らし、事業の売却価値をただちに減らす。市場で短期的に得をしたい者は、事業をより高い価値で売却するために、長期の利益をも尊重せざるをえない。*4

 だから長期の投資が行われるために必要なのは、事業を売却できる可能性、つまり、資本市場だ。人々の偏見に反して、発達した資本主義こそが(数年毎に選挙で人気を取らなければならない政府とは違って)長期の投資を可能にしている。*5

*1:この記事では、市場経済に長期的な投資を可能にするメカニズムが存在するか、という点に焦点を絞る。だから他の論点、例えば基礎研究の外部性や一般道路等のインフラの非排除性については触れない。

*2:インフラ産業では自然独占が生じる(ので規制が必要である)という説は戦前の電力産業には妥当していない。なお1930年代に電力が国営化されたのは何か市場経済の害が生じたということではなく、戦争遂行に必要な産業に優先的に電力を振り向けるためである。

*3:正確を期すなら超過利益の割引現在価値と簿価純資産の和であり、これは理論上、将来キャッシュフローの割引現在価値に等しい。念のため。

*4:企業が短期利益を追求するとすれば、それは現実には、経営者の利害と株主の利害の対立という形で現れる。経営者のボーナスが任期中の利益にのみ連動するように設定されているような場合である。これは技術的なインセンティブ設定の問題で、単純には、ボーナスを株価にも連動させることで回避できる。

*5:株式を購入した際に企業に資金が振り込まれるのは新株の場合だけだから、既発の株式のトレードは経済にとって有益でない、という見解を見かけることがあるが、この見解ははっきりと誤っている。既発の株式を随時に売却できる可能性がなければ、新株の引き受け自体が減少してしまうはずだからだ。

東芝の自社株買いについての雑感

jp.reuters.com

東芝が多額の自社株買いを決めた。昨年末に増資したばかりで忙しいことだ。以前から香港のファンドが自社株買いの実行を要求していたらしい。とはいえ、素直な経営だな、と僕は思った。

 自社株買いは新株発行の反対をイメージするといい。株式を渡す代わりに投資家から資金を集めるのが新株発行で、株式を回収する代わりに投資家に資金を払い戻すのが自社株買いだ。

 その企業に資金を預けることが有利だと信じるからこそ、投資家は新株発行に応じる。資金をうまく活用できないと思われれば、企業は投資家から払い戻しの要求を受けることになる。

 東芝の経営陣は、この7000億円を自分たちでは有効活用できないと認めたことになる。別の新聞記事では、東芝はモノ言う株主に屈した、長期的経営にとってマイナスになる、との評があった。

 僕はそうは思わない。東芝が再起を賭けるに値する有望なビジネスチャンスを見つけたなら、そのとき再び株式を発行し、もう一度投資家から資金を集めればよいのだから。だって東芝は上場を維持している。

資源制約を無視して必要性を論じることは虚しい

*1無人島に流されたロビンソン・クルーソーは、寒さを凌ぐための焚き木か、渇きを凌ぐための真水を集めようと考える。両方を用意する時間はありそうにない。夜の闇がそこまで迫っている。

 必要かどうかといえば、焚き木も真水も共に必要だろう。が、クルーソーは、どちらがより必要かを判断しなければならない。リソースが無限なら全ての選択肢を実行すればよい。有限の時間を生きる僕らにそれは叶わない。

 中国人とビジネスをする際に漢文が役に立ったという経験から、漢文が学校教育に必要だと結論することは、漢文を学んだ場合と、学ばなかった場合とを比較している点で誤っている。

 どんな学びも役に立つことはあるだろう。けれど僕らが直面している問題はそうではない。学びの時間は有限だ。本当に比較されるべきは、漢文を学んだ場合と、漢文を学ばないことで捻出される時間を他の行為*2に用いた場合なのだ。

*1:この記事は漢文不要論とそれに対する反論が一部界隈で話題になったことに触発されて書いた。誤解はないと思うけど、僕はここで漢文の廃止に賛成とか反対とかいう話はしていない。

*2:プログラミングでも会計でも、テレビゲームでも昼寝でも何でもよい。それらのうち最良の案と比較して、なお漢文を学ぶべきだと思えたならそうしたらよい。

恵方巻きは合理的に廃棄されているかもしれない

恵方巻きの大量廃棄が問題視されているようだ。それが問題視されるのは、農家や調理師の労働が無駄になっているように思われるからだろう。またそのような資源の無駄使いに、何か市場経済の失敗を見たような気がするからだろう。

 とはいえ、無駄に材料を仕入れたり料理師を働かせたりすることは、恵方巻きの生産者にとってもコストである。恵方巻きの生産者だって追加的なコストをかけることなく過剰生産が減らせるなら、減らしたいに決まっている。

 言い換えれば、過剰生産が減らないのは、需要予測の精度を高めることがそれ自体コストを必要とするからだ。例えば500人時間*1を市場調査に投入すれば恵方巻きの過剰生産が10000本減らせるとする。

 一方、恵方巻き10000本の生産には農家300時間の労働と調理師100時間の労働が必要だとする。すべての労働力の時給を1000円とすれば、生産者は恵方巻き10000本を生産するために、300000円で材料を仕入れ、100000円で調理する。

 生産者はこの合計400000円と、市場調査のためのコスト500000円を比較し、市場調査を行わないと判断する。この判断は生産者自身にとってだけでなく、資源の効率的利用の意味で、社会的にも合理的である。

 もし市場調査を行うなら、400人時間の資源を節約するために、500人時間の資源を犠牲にすることになるからだ。無駄になったと思われた恵方巻きは、より大きな市場調査のコストを節約するために必要なものだったのだ。

 恵方巻きの廃棄がこのようなものであれば、それは市場の失敗を意味せず、政府の規制によって是正できるものでもない。*2生産者が500人時間を要する市場調査が、規制当局ならより低コストで実施できると考える根拠は何もない。*3

*1:以下簡単化のために生産要素は労働のみとしているが、資本財を加えても話は変わらない。

*2:現実の恵方巻きの廃棄が、上に述べたのとは全然別の理由で生じている可能性はなおあり得る。この記事は恵方巻きの廃棄が合理的に説明のつかないものではないという一例を示すことで、単に恵方巻きの生産を規制すれば良いとか、恵方巻きの生産者がバカだからこのような問題が起こるのだというような安直な発想への警鐘を鳴らすものである。

*3:より一般に、情報が非対称だとか不完全な状況は定義によって完全競争市場ではないが、だからといって市場に介入することで資源配分を改善できるかは別の問題である。上の例で情報が不完全なのは、もともと情報を手に入れること自体にコストがかかるからであり、政府が出てきたところでこのコストを消し去ることはできない。初等的な経済学の教科書では市場に問題があるときには政府が出てきて問題を解決することになっているが、あれは現実の政府ではなくて、仮にかくかくの能力を持つ政府を想定すれば……という、モデルの示す問題に理論的な解決を与えるためのデウス・エクス・マキーナなのである。