資源制約を無視して必要性を論じることは虚しい

*1無人島に流されたロビンソン・クルーソーは、寒さを凌ぐための焚き木か、渇きを凌ぐための真水を集めようと考える。両方を用意する時間はありそうにない。夜の闇がそこまで迫っている。

 必要かどうかといえば、焚き木も真水も共に必要だろう。が、クルーソーは、どちらがより必要かを判断しなければならない。リソースが無限なら全ての選択肢を実行すればよい。有限の時間を生きる僕らにそれは叶わない。

 中国人とビジネスをする際に漢文が役に立ったという経験から、漢文が学校教育に必要だと結論することは、漢文を学んだ場合と、学ばなかった場合とを比較している点で誤っている。

 どんな学びも役に立つことはあるだろう。けれど僕らが直面している問題はそうではない。学びの時間は有限だ。本当に比較されるべきは、漢文を学んだ場合と、漢文を学ばないことで捻出される時間を他の行為*2に用いた場合なのだ。

*1:この記事は漢文不要論とそれに対する反論が一部界隈で話題になったことに触発されて書いた。誤解はないと思うけど、僕はここで漢文の廃止に賛成とか反対とかいう話はしていない。

*2:プログラミングでも会計でも、テレビゲームでも昼寝でも何でもよい。それらのうち最良の案と比較して、なお漢文を学ぶべきだと思えたならそうしたらよい。