「会計的事実」?

次のような奇妙な「会計的事実」とやらをしばしば見かけるようになった。

例えば政府が民間企業から航空機を購入する。この資金を国債発行によってファイナンスする場合、国債購入代金が国債の買手である市中銀行から売手である政府に、両者が中央銀行に開いている口座を通じて振替えられる。ところがこの国債購入代金と同じ金額が、民間企業が航空機の代金として政府から受け取った小切手を市中銀行に取り立てに出すことによって、再び中央銀行の口座を通じて政府から市中銀行に戻ってくる。すなわち、このプロセスの最初と最後で市中銀行が中央銀行に保有している口座の残高は一切減少していないのだから、市中銀行の国債購入資金は永久に枯渇せず、したがって市中銀行はいくらでも国債を購入することができるし、それによって民間投資のクラウディングアウトが生じることも、国債金利が上昇することもない。*1

結論を除けば間違ったことは言っていないが、これは政府支出を実行した場合に起こることの一部分でしかない。実際、この状況でクラウディングアウトが起こる例は簡単に作ることができる。例えば民間企業がこのプロセスの結果手にした市中銀行口座の預金を、民間からの受注に備えて用意していた市中銀行からの借入金の返済に充てる。同じことをモノの側から説明すれば、政府からの注文を受けた民間企業が、予定していた民間からの受注をいくらか減らす。これはクラウディングアウトそのものだ。政府がより借入を増やすと、より限界生産性の高い投資がクラウンディングアウトされていくため、金利は上昇していく。

 それは企業の受注余力や行動にそのような仮定を置くからであって、仮定次第ではクラウディングアウトが起こらないような状況も作れるのではないか、という反論があり得るかもしれない。その議論自体に意味がないとは思わないが、今の論脈では反論にならない。そのような反論は結局、冒頭の会計的記述の他に、企業や家計の行動に何らかの仮定を別途置かない限り、クラウディングアウトや金利に関する事実を導くことができないことを(すなわち冒頭で結論されたような「会計的事実」が存在しないことを)認めることになるからだ。*2

*1:このような説明は、例えば中野明「図解ポケット MMTのポイントがよくわかる本」や、中野剛による記事に見ることができる。

*2:そして、各経済主体の行動をどのように仮定すればどのような事態が生じるのかをまさに分析するためのツールが、冒頭のような説の提唱者たちによって批判されている所謂主流派経済学なのだが、そういう肝心なところはあまり理解されていないようである。

なぜ金利は椅子取りゲームではないのか

次のようなお話を聞いたことはないだろうか?

銀行は人々にお金を貸すが、返すときには利子が付くので、その分のお金をどこかから集めてこなければならない。ところが最初に貸したときには利子分のお金は発行されていないので、お金の量全体が増えなければ、返済することができない破産者が必ず出る。だから人々はお金を返すために、銀行からの借入を永久に増やし続けなければならない。 

 そしてこの手の話*1は、だから資本主義は必ず崩壊するのだとか何とかいう話に続く。さて、仮にこの話が正しければ、借入がただ一回だけ行われ、その返済期日に元利金のすべてが返済されなければならない(借り換えや追加の貸し出しが行われない)世界では、必ず破産者が出ることになる。本当か?

 まず単純なケースとして、銀行の貸出金利と預金金利が同一のケースを考えよう。企業は100の原価で生産した商品を、いくらでもいいが、120で売却するとしよう。このとき、20%を超える金利を提示されても企業は借りる訳がないので、金利は20%以下となる。ここでは金利はちょうど20%としよう。

 以下、各部門のBSの推移を示す。

企業が銀行から100借りる。

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企業は商品の生産を行い、賃金として家計に100支払う。

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利子20の発生。

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企業は家計に商品を売却し、代金として120受け取る。

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 後は企業が家計から受け取った120で銀行からの借入120を返済してオシマイだ。冒頭のお話は預金にも金利が付くという単純な事実を忘れている。銀行からの借入に金利が付くように、銀行への貸しである預金にも金利が付くので、銀行の貸出金利と預金金利が同一である限り帳尻が合う。

  では、銀行の貸出金利と預金金利が異なるケースではどうか? 企業が銀行から借りるときには先のケースと同様に20%の金利が付くが、預金には金利が付かないものとする。

企業は銀行から100借りる。

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企業は商品の生産を行い、賃金として家計に100を支払う。ここまでは先のケースと同じ。

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銀行の貸出(=企業の借入)についてのみ、利子20の発生。

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銀行は利益20を配当金として家計に支払う。

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以下、先のケースと同じ。企業は家計に商品を売却し、代金として120受け取り、それで銀行に借入120を返済してオシマイだ。

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 冒頭のお話は、銀行も究極的には家計によって所有されているという単純な事実を忘れている。労働者としての家計に分配された賃金が100、銀行の株主としての家計に分配された利益が20、その合計が生産された商品の価値120で帳尻が合う。

*1:どうやら安部芳裕「金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った」辺りがこの手の話の出処らしい(別に薦めないのでリンクは貼らない)。

企業が現預金を貯め込んでる、って本当か?

www.mag2.com

 上の記事は企業の現預金残高が高水準にあることで日本の景気が悪くなっていると主張する。企業が貯めこむことで家計に現預金が流れず、家計の消費が抑制されているのだという。

 そういう話が成り立っているなら、反対に家計の現預金残高は低い水準にありそうなものだ。が、実際にはそうなってはいない。日本企業の現預金残高は他国に比べて高い水準にあるが、同様に、家計の現預金残高もまた高い水準にある。*1

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 そして企業が保有する現預金と家計が保有する現預金の比率は、日本も米国も2対8で変わらない。

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 日本は企業の保有する現預金が大きいというより、日本経済全体に存在する現預金の量自体が大きいのである。企業の現預金残高は経営上の現金保有動機から分析されることが多く、この単純な事実はしばしば見過ごされてきた。

 預金残高の大きさは日本が間接金融優位の経済であることの反映かもしれないし、長期にわたる低金利の結果かもしれないが、いずれにせよ経済の資金循環全体を視野に入れて分析されるべきものだろう。

*1:グラフはOECD statのfinancial accountsから作成

日本のGDPシェア推移の要因分解(vs G7)

日本のGDPシェアが低下して大変だ云々という話がはてブでバズっていた。どうしてGDPそのものじゃなくシェアの方にみんな興味があるのかは謎だ(後者は前者が持っている情報量を無駄に潰しているだけじゃないの?)。

 GDPシェアの変化(ポイント)は 、ある国のGDPをY、世界のGDPをアスタリスク付きのYで表すと (どちらもあらかじめドル換算しておく)、

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 要するに世界全体のGDP成長率よりも日本のGDP成長率が高ければ日本のGDPシェアは拡大し、低ければ縮小する。ふつう先進国のGDP成長率よりも発展途上国のGDP成長率が高いので、発展途上国がキャッチアップしてくる過程で先進国のGDPシェアが縮小するのもふつうである。

 右辺の括弧内をソロー分解すると

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 すなわちある国のGDPシェアの変化は、その国の全要素生産性(Multifactor productivity, A)の成長率、資本投入(Total capital service, K)の成長率、労働投入(Total hours worked, L)の成長率が、全世界におけるそれぞれの成長率をどれだけ上回ったかという3要因に分解できる。

 先の理由で途上国含む全世界のGDPと比較してもつまらないので(そして全世界のGDPをソロー分解できるデータもないので)、ここからは全世界のGDPの代わりにG7のGDPを使用し、G7における日本のGDPシェアの変化を分析する。

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 G7各国におけるGDPシェアの推移はグラフの通りであり*1、日本のシェアは1995年から2017年のあいだに17.1%から13.9%へ3.2ポイント低下している。

  上の式を使って日本のGDPシェアの変化を各要因に分解すると次の通り*2。一応解説すると、例えば1995年ならMFPの成長(第一項)と資本投入の成長(第二項)はプラスなのでG7に勝っており、労働投入の成長(第三項)はマイナスなので負けていて、それらのトータルとしてシェアは黄線のポイント分だけ拡大している。

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 ついでに米国。

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 そして1995~2017年の増減の合計。左が米国で右が日本。

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 すなわち最初のグラフで示した日本のGDPシェア3.2ポイントの低下は労働投入の寄与マイナス2.4ポイントで7~8割方説明可能で、残りはMFPの寄与プラス0.2ポイント、資本投入の寄与マイナス1.0ポイントによって説明される。

 日本の生産性は低いといわれがちだが、実はここ20年のMFP成長率に関する限りG7平均には打ち勝っていることが分かる。*3問題の大部分は労働投入の減少で、これが少子高齢化の反映かどうかは別途考察を要するが、きりがいいので別の機会にしよう。

*1:USD, constant prices, 2010 PPPs。冒頭で言ったように、僕はGDPシェアを見ることにあまり意味を感じないので、GDP自体の推移も貼っておく。日本のGDPは1995年から2017年の間に1.2倍に拡大している。

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*2:ソロー分解の結果はOECD.statのProductivityから持ってきた。

*3:絶対的な水準ではもともと低いという問題はあるにせよ。

信用創造の話2

無リスク世界を想定するなら、企業と家計が直接やり取りする場合(ケース1)と銀行による信用創造(ケース 2)は同じことになるだろう、というのが前回の話だった。今回はシンプルな2期間モデルを示す。説明を簡単にするために限界変形率(生産可能フロンティアP.P.F.の傾き)一定を仮定する。

 まずはケース1から。第1期において、家計は財の初期保有Iの一部を企業に売却し、交換に企業から手形Sを購入、残りのC1=I-Sを第1期のうちに消費する。企業は第2期までに生産活動を行い、財を増殖する。第2期において、家計は手形を企業に売却して財を購入し、消費する。第2期における消費量をC2であらわす。

 家計は限界代替率(無差別曲線I.C.の傾き)が手形の利子率1+rよりも大きい(小さい)限り手形の購入額を減らす(増やす)ので、限界変形率=限界代替率=1+rで均衡する。この均衡はパレート最適である。

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 これはごく普通の経済学で扱われる2期間モデルそのものだ。経済学は商品貨幣を想定している(だから非現実的である)などと言われることがあるが、僕には全くの冤罪としか思われない。上のモデルでは決済は貸借(手形)によって行われ、商品貨幣は登場しない。各経済主体のBSの推移は次の通り。

 

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 つづいてケース2。第1期において、企業は銀行から借入を実行して預金証書を入手する(信用創造)。家計は財の初期保有Iの一部を企業が手にした預金証書Sと交換し、残りのC1=I-Sを第1期のうちに消費する。企業は第2期までに生産活動を行い、財を増殖する。第2期において、家計は預金証書で企業から財を購入し、消費する。第2期における消費量をC2であらわす。企業は戻ってきた預金証書で銀行からの借入を返済する。

 なお利子率は単一で、銀行の貸出利子率と預金に付される利子率は等しいとする。無リスク世界では銀行がリスクプレミアムを取れないので妥当な想定だと思うが、単に簡単化のために仮定したと考えてもらっても構わない。また手形の場合(ケース1)との比較が簡単にイメージできるように預金”証書”としたが、普通口座間の振り込みを考えてもらっても事態に変化はない。

 家計は限界代替率(無差別曲線I.C.の傾き)が預金の利子率1+rよりも大きい(小さい)限り預金額(預金証書の購入額)を減らす(増やす)ので、限界変形率=限界代替率=1+rで均衡する。この均衡はパレート最適である。

 先ほどのケース1と同じことが起きているのが分かるだろうか? 図は全く同じなので再掲しない。各経済主体のBSの推移は次の通り。

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 信用創造そのものは企業と銀行が互いに同額の債権債務を持ち合うことになるだけで、ネットの債権債務関係を全く変化させていない。それが変化するのは企業と家計が取引した時点だが、それはケース1における手形の発行と丁度同じ変化を引き起こすだけだ。経済学が信用創造を無視してきたというのは誤りで、銀行の存在を短絡させてケース1のように考えても同じなので、単に明示的に取り扱う必要がなかった。

 最後に。ケース1では、家計が手形Sを第2期に持ち越さなければ企業の生産は不可能だったという意味で、家計の貯蓄が企業の投資をファイナンスしていた。同様にケース2でも、家計が預金Sを第2期に持ち越さなければ企業の生産は不可能である。現在の消費にしか価値を見出さないキリギリス星人は、第1期において預金証書と財との交換に応じないか、あるいは第1期のうちに企業に預金証書を突き返して財を買い戻してしまう。結局、家計の貯蓄が他部門の投資をファイナンスしているという話は信用創造の場合でも普通に正しい。

信用創造の話

信用創造とは銀行が貸付を行うことだ。このとき貸付と同額の預金が借手の口座に振り込まれる。銀行と借手がそれぞれ次の仕訳を切ることだ、といってもいい。

銀行: 貸付/預金

企業: 預金/借入

 ある論者はこれをみて、貯蓄(預金)は貸付と同時に創造されるのだから、銀行の貸付は家計の貯蓄に制限されないのではないか、という。また別の論者は、際限なく預金を生み出せることが過度のインフレを引き起こすのではないか、という。

 僕は単に次のことを指摘したい。上の仕訳では、何も起こっていない。銀行が借手に対して債権を持ち、同じ相手に同額の債務を負う。僕があなたに100万円を払いますという証書と、あなたが僕に100万円を払いますという証書を交換しても、その時点では何も起こっていないといっていい。

 何かが起こるのは次の時点だ。借手(企業だとしよう)がその資金を元に、家計から土地を購入する。ここで銀行が債権を持っている相手と債務を負っている相手が初めて捩れる。仕訳は次の通り。

家計: 預金/土地

企業: 土地/預金

各主体のBS増減をまとめると次の通り。

企業: 土地/借入

銀行: 貸付/預金

家計: 預金/土地

 2点指摘したい。1つは、無から有が生まれたのではないということ。企業が事業に使用するだろう土地は、そうでなければ家計が、家を建てるなり趣味の園芸に使うなり他のことに使えた。企業の土地への投資は、家計がそれを放棄することで初めて可能になっている。

 2つ目は、ここで起きたことは銀行の信用創造を持ち出さなくても、企業と家計の直接のやり取りで擬制できるということ。要するに、企業が家計から土地を譲り受け、対価として自ら発行した証書(手形を考えてもいい)を引き渡すのと同じことだ。その証書は預金と同じように貯蓄であるし、なんなら(割引かれるかもしれないが)決済に使ってもいい。

 さきほどのBSを使って言えば、銀行は左手の債権で企業の右手と手を繋いでおり、右手の債務で家計の左手と手を繋いでいるだけなので、短絡させてしまっても別に同じだろう、ということだ。

 何が言いたいかおわかりだろうか? このような擬制が可能だということは、つまり、銀行の信用創造は貯蓄・投資において、本質的な(それなくしては説明できないような)役割を持っていない、ということだ。だから冒頭の論者たちの疑問は、家計と企業が直接やり取りした場合と同じ答えを持つはずだし、また家計と企業が直接やり取りした場合を経済学が説明できているのなら、それはすでに銀行の信用創造をも説明できていることになる。実際のモデルに即した説明は、長くなるので別の記事にしよう。

 最後に、それなら銀行は一体何をしているのか? 思うに、無リスク世界では間接金融としての銀行は存在しない。それは単に借手と貸手を引き合わせる仲介業者と区別がつかない。無リスク世界では手形はリスクによって割り引かれることもないので、安全な決済手段としての預金も無用である。

 逆に言うと、銀行の本質的な役割はリスクある証書や手形を安全な預金に変換することにある。リスクが消えてなくなるわけではないから、その分のリスクは銀行が負っており、それが融資の金利と預金金利の差で、銀行の儲けになる。

 仮想的に次のような銀行設立のストーリーを考えてもいい。企業と家計が直接やり取りする場合の手形を人々が持ち寄って、交換に預金証書を受け取る。これは結果的に、銀行が信用創造したのと同じことになる。預金は手形のスープである。手形の価値は企業の事業の成否によって変動してしまうが、一部の者が銀行の株主となり、その変動を吸収することで預金の価値を安定させる。

 貯蓄・投資は手形の発行時点で形成されていたので、銀行の信用創造で貯蓄や投資が生まれたわけではない。ただ預金者と株主の間でリスクが移転しただけである。信用創造という言葉で預金の創造を意味するなら、要するにそれが信用創造の機能だろう。

”債務負担についての誤謬”(3/3)

前回に引き続き、ブキャナン*1とワグナーの"Public Debt in a Democratic Society"から、"The Fallacies of Debt Burden"を紹介する。今回は第3回で、最終回。以下翻訳。

 

移転的支出の誤謬

 「我々は我々自身から借りているのだ。」これは内国債がコストを時間的に先送りすることを否定する人々や、内国債は外国債や私的な債務とは異なる種類のものだと主張する人々の議論において繰り返されてきたフレーズである。これは今まで議論してきたものよりもいっそう現代風味の議論の行き詰まりに注意を向けさせるものである。ポストケインジアンが国民会計を強調するのは、君臨するこの知的混乱に部分的な原因がある。国民会計の下では、バランスシート及びインカムステートメントは、それぞれの個人についてではなく、ある程度恣意的な政治的境界に基づき集計される。個人の勘定の借方と貸方はしばしば互いに相殺されるので、その限りにおいて、それらは一国の集計に影響することがありえない。

 このことが内国債の負担について、次のような誤った議論に信憑性を与えてきた。もし公債証書を保有する人々が国民経済の内部に住んでいるなら、その経済の内部から税金を徴収して彼らに対する利払いを行うことは、所得ではなく移転支出として扱われる。この移転をなすにあたって、いかなる資源も使い切られていない。つまり、この利払いは現在の財やサービスと引き換えになされたものではない。

 ここでの誤謬は、国民会計の慣例における特定種類の支払の取り扱いが、公的な財の機会コストの在り処をいくらか変更してしまうという事実の中にある。これらの慣例は恣意的であり、それらの多くが重大な批判の対象となる。政府が(即ち集合的に組織された立場においての個人が)債務をデフォルトすることを選ばないのであれば、内国債に対する支払が移転的支出であるという性質は、コミュニティのメンバーである個人の経済的環境を全く変更しない。

 国内で保有されている私的な債務に対する利息の支払いは(家計間での支払いを除いて)国民所得に含まれる。しかし、これらは公債に対する利払いと厳密に全く同じ意味で移転である。いずれのケースでも、利息の支払いは、借り手=債務者としての立場での個人から、貸し手=債権者としての立場の個人への移転を表している。いずれのケースでも、これらの支払は契約に基づくものである。単に国民会計上の便宜として、これら二つのタイプの支払のうちの一つのタイプだけが明示的に移転として扱われるという事実は、債務の負担を分析するうえで全く意味を持たない。

 

債務負担の原則のまとめ

 公債のシンプルな原理*2を否定してきた、回りくどく、時として邪な議論は、いくつかの関連した論理的推論上の誤謬に基づいている。これらの誤謬を追いやることは、周知の事実であるこの原理の有効性を、より強固に打ち立てることに役立つ。この原理は先に述べた、誤った結論のそれぞれを反転させる形式でまとめることが可能である。流行の議論とは対照的に、我々は次のことを結論付ける。

(1)ファイナンス手段としての公債は、政治的コミュニティのメンバーである個人に、公的な財の客観的機会コストを先送りすることを可能にする。公債発行時の負担は時間的に(訳注:将来世代などに)先送りされる。

(2)内国債と外国債の間に本質的な違いは存在しない。

(3)公債と私的な債務(訳注:家計や企業の借金)は最も基本的な性質において類似している。前者においては、個人は市民としての立場で資金を借り入れる。後者においては、個人は私的な経済的単位としての立場で資金を借り入れる。

*1:1986年ノーベル経済学賞受賞。

*2:訳注:翻訳箇所に先行しておこなわれた著者ら自身の議論を指している。