信用創造はなぜ打ち出の小槌ではないのか──まともなマクロ経済論議のために

意外と知られていない銀行と国債のしくみ:中野剛志「奇跡の経済教室」最新講義第3回 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

最近上の記事のような議論をよく目にします。*1それはこういうものです。銀行がお金を貸すというのは数の限られた金の延べ棒を渡すのとは違って、貸し付ける行為自体が預金を作り出すので、貸し付けるためのお金が枯渇することはないのだと。だから返済能力にまず間違いがない相手──例えば政府──にはいくらでもお金を貸すことができるし、それによって民間への貸付が減ることもなければ、金利上昇の原因にもならないのだと。なぜなら金の延べ棒はある人に渡してしまえば別の人には渡せないけれども、預金は通帳の数字に過ぎないので、ある人に貸したからと言って別の人に貸せなくなることはない(むしろ貸しただけ増える)から──と、こういう議論です。そしてこの手の議論はしばしば、古典派経済学は金の延べ棒を貸し出す貨幣観を前提としており現代の主流派もそれを継承しているから、信用経済を前提とする新たな経済学を打ち立てなければならないのだ──という経済学史観と共に語られます。

 しかし、ある銀行貸付が別の銀行貸付を減らすことはない、というのは端的に誤りです。例えば銀行が政府に1000億円を貸し付けたとしますね。このとき作り出された預金は政府の事業の結果として、企業なり家計なりの口座に渡ります。しかし当然ですが、彼らがその1000億円をそっくりそのまま持ち続けてくれる保証はありません。彼らが例えばそのうち700億円を銀行からの借入の返済に使った場合、銀行から見ると貸付と自行の預金がともに700億円減ることになります。つまり政府に1000億円の貸付を行った結果として、銀行から民間への貸付が700億円減少し、銀行預金は300億円しか増えない、ということが起こり得るのです。

 この考察から言えることは、ある貸付が別の貸付を減少させるかどうかは、預金を受け取った人がどうするかを考慮に入れない限り分からない、ということです。冒頭の議論では預金を受け取った企業なり家計なりの行動は全く考慮の外に置かれています。実のところ冒頭の議論は、貸付が行われる瞬間を描写しているに過ぎず、マクロ経済の描写になっていないのですよ。確かに貸し付けが行われる瞬間には貸付と同額の預金が生み出されるのですが、それは他の経済主体の行動にも影響し、それがまた他の経済主体に影響し……と続いていくので、その全体を分析する枠組みがなければマクロ経済理論たりえないのです。ちなみにいわゆる主流派の一般均衡理論は、各経済主体の目的関数を設定して、その最適化問題の均衡として経済を描写するので、こういうゴマカシを許さない仕組みになっています。

 金利についても話しておきましょう。先ほどの話では、銀行から企業や家計への貸付と、企業や家計が銀行に保有している預金がともに700億円減ってしまうという想定でした。例えばもし銀行が貸付から受け取っている金利が5%で、預金に対して払っている金利が2%であれば、貸付と預金がともに減った結果、銀行は利益を減らしてしまうことになります。こういう状況では、銀行は預金金利を例えば2%から3%や4%に上げることが考えられます。金利が上がったことで預金者が預金を持ち続ける動機が強くなりますから、銀行に返済されてくる預金は700億円から例えば400億円や300億円に減らせるかもしれません。要するに、預金金利というのは預金者に預金を持たせ続けるために必要なのですよ。金の延べ棒に限りがあるからではありません。そんな話は初めから関係がないのであって、純粋信用経済にも金利は存在するのです。

 国債金利を上昇させることなくいくらでも銀行に国債を保有させることができる、といった説も今の話から否定できますね。銀行が預金者により多くの預金を保有させておくにはより高い預金金利を提示する必要があります。銀行部門のバランスシートが拡大するにつれて預金金利が上がっていくわけです。銀行は当然、預金金利の上昇につれて国債金利が上がっていくのでなければ、どこかで国債を買わなくなる。買えるとか買えないとかではなく、買わないのです。国債から得られる金利よりも預金に払う金利の方が高いのであれば、買うだけ損だからです。

 さて冒頭で述べたように、冒頭のような議論はしばしば独特の経済学史観と共に提示されます。それは例えばリカードやJ.S.ミルが一種の商品貨幣説を取っていたというような話から始まり、現代の主流派のマクロ経済学もその貨幣観を継承しているのだ、というような締めで終わります。が、少なくとも私は、このような主張が実際に現在使われているマクロ経済モデル(DSGEや、あるいはもっと簡略化されたものでもいいのですが)に即して語られているのを見たことがありません。古典派がそうである、ワルラスの一般均衡理論もそうである、DSGEも一般均衡理論の延長にあるからやはりそうである、というような形でジャンプした議論が提示されるだけです。なぜモデルそのものを検討しないのでしょうか? DSGEの式のこの部分が商品貨幣説を表現している、それはDSGEの解にこのように影響している……という形で議論を提示したほうがはるかに説得力がありますし、そもそもモデル自体を検討するのでなければ主流派経済学を批判できたことにならないと思うのですが。

 しかし、私の理解では、それは不可能なのです。なぜなら──この点はしばしば経済学を体系的に学んだ人も勘違いしているのですが──異時点を含む一般均衡理論はそもそも信用経済の理論だからです。だって、例えば現在財と将来財の交換などといったものは、現在の財と、将来の財を引き渡す約束とを交換する、ということとしてしか理解しようがないでしょう? それはすでにして財と信用の交換です。実際私は過去の記事において、単純な二期間モデルに対し、信用経済を表現したものとしての解釈を与えています。

 以上のような話をすると、お前は財政破綻論者なのかとか何とか言いたくなる人がいるかもしれません。そういったことについて私が何も意見を持っていないわけではありませんが、少なくともこの記事の中ではそういう話は一切していないことに注意してください。私が言わんとしているのは、銀行が信用創造を行っているというだけの事実から、金利が上がらないとかクラウディングアウトが起こらないとかいったことを先験的に導出できると主張する理論は誤っている、ということです。それらを論ずることは、家計がどれだけ預金を保有したがっているかとか、企業の投資機会がどれだけ存在するかといった観察的事実を考慮に入れなければできるはずがないのです。しかし、こんなことは、全く当たり前のことではないでしょうか。

*1:私は何回か中野剛志について批判的に述べてきたが、それは私の見るところ、この種の主張を行う人々の中で中野剛志が最も自らの議論を明晰に提示しているからである。彼の議論ははっきりと間違っているのだが、その明晰さ故にはっきりと間違うことができるのだし、有意義な批判の対象とすることもできる。どうかこれを皮肉だと思わないで頂きたい。