教育の外部性はどのようなものでないのか

土地の賃借料が50万円、その土地を駐車場にする場合の駐車料金収入が30万円なら、その土地は駐車場にされないだろう。駐車サービスが駐車場の生み出す便益の全てであるとき、この判断は駐車場経営者にとってだけでなく、社会的にも最適となる。

 というのは、人々が駐車サービスから得る便益は駐車料金収入に織り込まれているからだ。もし駐車場利用者の得る便益が実のところ70万円に値するものであれば、駐車場が混雑し、経営者は駐車料金を値上げし、駐車料金収入は実際70万円まで上がらざるを得ない。

 ここで条件を変更し、駐車場にしないという判断が社会的に最適にならないケースを作ることもできる。例えば、元々その土地に草が伸び放題で、害虫の温床となっており、周辺住民が害虫駆除のために毎月40万円を支出しているとする。

 この土地を駐車場にすることで害虫の被害がなくなるとすれば、駐車場を建設することによる社会的便益は駐車サービス30万円+害虫駆除サービス40万円であって土地の賃借料を上回る。しかし、駐車場経営者が害虫駆除分の料金を周辺住民に請求できないなら、この土地が駐車場になることはない。

 第一のケースと第二のケースの違いは、サービスが市場で取引されているかどうかにある。市場の効率性は、価格機構を通じて個々の経済主体の意思決定が社会的に最適な*1意思決定と一致することに懸かっていた。*2第二のケースでは、駐車場経営者が害虫駆除分の料金を請求するための市場がそもそも存在しないために、駐車場の自発的供給が社会的な最適水準と一致しないこととなった。*3これが外部性の意味である。

 いよいよ教育の話をしよう。注意を促したいのは、教育は社会を豊かにするから政府によって補助されるべきである、といった種類の言説に対してだ。教育が社会を豊かにすることは、それ自体は教育の外部性を意味していない。駐車場を建設することで駐車サービスの供給が増加することは、ドライバーの利便性を向上させる意味で社会を豊かにしているが、外部性ではない。問題は教育の生み出す便益が市場を通じて取引されているか、にある。

 すると職業教育や資格教育については外部性が考え難いことがわかる。MBAや歯科大学、美容学校、フォークリフト講習といった教育によって身につける技能から生み出される便益の対価は、雇用主や顧客からの支払いによって回収されるからだ。歯科医は患者の虫歯を治し、治療費を受け取る。ここに外部性はない。*4 *5 同じ理由で、ビジネスの技能を磨く「リカレント(学び直し)教育」といったものに補助金を出すことは支持されない。

 さらに一般に、高等教育の外部性は怪しい。ある学生が源氏物語やコンピュータ・サイエンスの勉強をすることの便益が、一体どのような経路で市場の外部に漏出するのか?*6またしばしば誤解されるように、大卒を一人雇えば社内の他の人もその知識の恩恵に与れるので、会社全体の生産性が向上する、というも外部性ではない。そのような効果が見込まれるならば、経営者はその分だけ高い給料を支払ってでも大卒を雇いたいはずであり、したがって生産性の向上は給料に織り込まれざるを得ないからだ。

 逆に初等教育については、より広範な外部性が認められるだろう。例えば人々が基本的な法やマナーを身につければ地域の犯罪率は低下するだろう。その恩恵の対価を地域の各家庭の自発的な支払いに期待することは現実的ではない。また人々が基本的な衛生観念を身につければ、地域から伝染病や悪臭が生じることをある程度防げるかもしれない。その恩恵の対価を地域の各家庭の自発的な支払いに期待することは、やはり現実的ではない。*7

*1:ここではパレート効率性を意味する。

*2:もっともこれはパレート効率性という尺度からみた絶対的な効率性であり、それが満たされていないからといって直ちに政府介入が肯定されるわけではない。市場によってパレート効率的な資源配分が達成できないからといって、政府によってそれが達成できるというわけでもなく、どちらが相対的によりマシかという判断になる。

*3:なお適切な交渉の場を設定できれば、周辺住民がこれまで害虫駆除のために支出していた40万円の代わりに、これからは例えば30万円を駐車場経営者に支払うという約束によって駐車場が自発的に供給される可能性は残されている。つまり市場を創出することで、外部性を内部化できる可能性がある。また市場が創出できない場合に政府介入を認めるとしても、周辺住民という限られた範囲にのみ外部性が及ぶことを考えれば、国や自治体ではなく、町内会などより小規模な組織で行われることが望ましい。

*4:もっとも歯科医のような規制産業の場合は、料金設定が適切かという問題が別に存在する。

*5:直感的にも、MBAや専門学校に奨学金を出すというのは、違和感を感じる人も多いのではないか。

*6:繰り返すようだが、彼(女)が就職して文学や計算機科学の知識を生かすというのは、直前のパラグラフと同様の理由によって外部性ではない。

*7:とはいえ現行の義務教育が直ちに肯定されるわけではない。その内容と規模はつねに問題である。

学び直し教育への補助金はどのように反生産的であるのか

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例えば土地の賃借料が50万円、その土地を駐車場にした場合の収益が30万円なら、その土地は駐車場にされるべきではない。30万円の価値を得るために50万円の価値ある資源を費やすことになるからだ。*1

 一般に、投下される費用が収益を上回るような投資は実行されるべきでない。それは、より小さい価値を得るために、より大きな価値のある資源を費やすことを意味するからだ。

 人的資本への投資も理屈は変わらない。学び直しであれ何であれ、投資としての教育は、教育に投じた費用を上回る収益が回収できる場合にだけ意味がある。*2そうでなければ、その投資は犠牲にした資源以上の価値を生んでいないからだ。

 例えば駐車場経営に毎月30万円の補助金が下りるなら、冒頭の土地は駐車場になるかもしれない。この補助金は実行されるべきでない投資を実行させる点で、僕らの経済をより貧しくさせるものだ。*3

 学び直しであれ何であれ、教育に補助金が下りるなら、そうでなければ採算割れだったはずの教育投資が実行されるだろう。この補助金は実行されるべきでない投資を実行させる点で、僕らの経済をより貧しくさせるものだ。

*1:それでも何もしないよりは駐車場にでもする方がましではないか、という見解は、比較対象を誤っている。比較されるべきは土地を遊休させる場合ではなく、別の仕方で土地を利用する場合である。そしてその代替的利用が50万円の価値を生むと予想されるからこそ、その土地の賃借料は50万円より下がらないのである。

*2:教育を受けるというのは学ぶ喜び自体に意義があるのだ、といった見解があるかもしれない。僕はその見解に同意してもいいけど、それは趣味と同じなので、その場合はなおさら自分のお金でやってください。

*3:補助金自体は所得を右から左に移し替えるだけで、何ら価値を生んでいないことに注意してほしい。

政府機関はもやしの価格を「適正」にすることができるか?

headlines.yahoo.co.jp

日本の公取には安値販売を企業努力と見る意識があるが、英国には加工食品の小売価格が適正かどうかを監視する政府機関があり、参考にすべきだ

 価格の話だけで数量に触れることなく議論が進んでしまう。僕には不思議で仕方ない。上の記事ではスーパーが悪者にされているけど、スーパーだって販売数量をそのままに価格だけ上げられるなら、上げるに決まっているじゃないだろうか?

 原料価格高騰時の2013年からもやしの生産量は減ったようだけど*1、それでも価格が上がらないのは需要の価格弾力性がとても高いということだろう。要するにもやしは安いから買われるということで、これは実感とも合致する。

  もやしの価格を政府の監視機関が「適正」(どうやって決めるつもりか、いずれにしても値上げするんだろう)にしたとする。すると僕らはもやしを食べる日を減らし、この日とこの日はキャベツにしよう、などと考える。

 それならばキャベツの価格も「適正」にしてしまえ、と監視機関が考える。しかし僕らは、例えば今月は10万円という生活費の中からもやしやキャベツを買っている。あれもこれも「適正」な価格にされたら賃下げされるのと一緒だ。

 それならば給料の価格も「適正」にしてしまえ、と監視機関が考える。あらゆる価格が「適正」になっていく。なんだ、市場価格なんてはじめから要らなかったんだ! 政府は何にでも「適正」な価格が決められるんだから。僕はそういう政府を知っているよ。ソビエトっていうんだけどね。

値引きもクーポンも悪くない

www.mag2.com

値引きやクーポンを不況や低賃金の原因と考える議論は、そもそもどうして売り手が値引きするのかということをさっぱり忘れてしまっている。値引きするのは、単価が下がっても数を売ったほうがいいと売り手が判断するからだ。

  1. 粗利400円で1日500個売る
  2. 粗利300円で1日800個売る

 1より2の方が買い手にとっても売り手にとっても望ましいことは疑いない。なぜなら買い手はより安くより多くの商品を手にできるし、そのことによって売り手はより多くの利益を手にするのだから。

 冒頭にリンクを貼った記事が主張するところでは、不況の対策は消費者が背伸びをして値段の高い商品を買うことだという。でも、ルノアールのバイトはドトールのバイトより高い給料をもらっているわけじゃない。ただルノアールは単価を高く、ドトールは回転率を高くして勝負しているということだ。

イラストの価格破壊と経済学の補助線

togetter.com

イラストの価格相場が3万円であるとき、イラストを2500円で提供する人々の参入は僕らの経済をより貧しくするだろうか? 今日はちょっと変わった方法でこの問題を考えようと思う。補助線を引くのだ。

 2500円でイラストを提供する人々と3万円でイラストを提供する人々との間に国境線を引いてみる。するとこの問題が、中国から例えば安い野菜を輸入することが望ましいか、というのと同じ形をしていることが分かる。

 したがってその答えは、2500円で仕事を請けるイラストレーターの出現は既存のイラストレーターの所得を低下させるが、*1それによる経済厚生の増加は仮に彼らの所得の低下を補ったとしても余りある、というものになる。

 イラストレーターに払われる金額が減ったにどうして経済が豊かになるのかと不思議に思う人は、買い手が残りのお金を他のことに使えるのを忘れている。900円の野菜が400円で買えるようになれば、残った500円でもう一品買える。

 昨日の所得で買えなかったものが今日の所得で買えることは、経済的に豊かになることそのものだ。*2中国が安く野菜を売ってくれることが僕らを豊かにするように、安くイラストを売ってくれる人々は僕らをより豊かにしてくれる。

*1:だから既存のイラストレーターが反発するのは不合理なことではない。関税撤廃に農家が反発するのが不合理でないのと同じように。

*2:というより、そもそも所得とは表示された金額ではなく購買力によって定義すべきものである。給料が何円増減しようが、買えるものが同じなら豊かになったとも貧しくなったとも言えないだろう。名目GNPを実質GNPにする作業というのは、要するにこの調整である。

農業・市場・競争

b.hatena.ne.jp

元のツイート自体に言及したいわけじゃなく、ただそれに対する反応を見ていると、競争というものが何か酷く勘違いされている印象を受ける。政府が農家をリングに放り込んで蟲毒するようなのをイメージしているんじゃないか。しかし競争を導入せよというのは単に、政府は余計な手出しをやめよというだけのことだ。

 たとえばある土地を田んぼにするより賃貸住宅地にした方が儲かるとすれば、それは人々が住宅サービスに対してより大きな金額を支払ってくれるから、つまり、そちらのほうが人々からより求められているからだ。所有者は自分が儲けるために、この土地を賃貸住宅地にすることを選ぶだろう。人々からより求められているものを提供した生産者がより豊かになれる。これが市場における競争だ。

 ここで政府が、たとえば補助金によってこの土地を農地のままに維持した場合、特定の生産者が補助金を受け取れるという点で不公平なだけじゃなく、人々がより強く求めていたはずの賃貸住宅の供給が損なわれてしまう点で、より非効率な仕方で土地が利用されることになる。

 誤解の余地はないと思うけど、僕は農地を潰して住宅地にせよと言っているわけじゃない。土地をどのように使うかを政府が指図しようとするの自体がおかしいということだ。米が欲しいか、野菜が欲しいか、部屋を借りたいか、そんなことはお金を払う人自身が一番よく知っている。*1 *2

*1:余談だけど、農業政策を見ると、自民党が新自由主義で競争を推進してきたなんて話はちゃんちゃらおかしく思われる。小泉政権のときに一時期そのような政策の萌芽は見られたけども、中途半端な形で終わっている。全体としては自民党は農家を補助金漬けにし票田化してきた。森友加計も真っ青だ。

*2:食料自給率については、

u-account.hatenablog.com

研究者が公金で養われることを当然だとする見解について

http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/mixingale/status/929004106462642176

「研究になぜ公金をつっこむのか」って意見があるみたいだから研究活動の成果を公金を支払って一括利用する仕組みをやめて全部逐一利用料をとりたてる仕組みに変えてみたらいいんじゃない。まず数学者が地主並みに儲かることになるだろう。アンチコモンズの悲劇で利用料は恐ろしい額に達するだろう。

 上は先日話題になっていたツイートだ。このような制度変更をした場合にアンチコモンズの悲劇が生じることに異論はない。けれど「研究になぜ公金をつっこむのか」の回答として当を得たものだとは思われない。

 アンチコモンズの悲劇が生じるのは供給者に独占を認めるからだ。むろん現行の法制度では学術的真理に知的財産権は認められない。*1上のツイートでは、学術的真理の発見者に強力な独占を認めるという現行制度とかけ離れた想定をした場合に、その利用が社会的に望ましい水準よりも過小になってしまう、ということが示されているにすぎない。*2何かがうまくいくことを示す場合にはその一例を挙げれば足りることもあるかもしれないが、うまくいかないことを示す場合に、うまくいかないに決まっている特定の一例を挙げられても仕方ない。

 もちろん上のツイートは、学術的真理に全く何の権利も認めない場合には、その私的供給が最適な形では行われないことを前提としたものだろう。つまりその場合には、コカコーラのレシピのように発見者が成果を秘匿してしまうか、それができなければ研究費用が回収できず十分な投資が行われないので、やはり学術的真理の供給は社会的に望ましい水準よりも過小になることが予想される。

 であれば、完全な独占と無権利の中間に適切な制度設計を探ろう、というのがあるべき議論のはずだ。実際、アンチコモンズの悲劇は他の知的財産についても生じうるが、例えば小説の供給が過小で困るという話は聞かない。 そこには一定の著作権が認められているが、他の小説への言及、トリックや人物造形などのアイデアの剽窃、世界観の拝借などに利用料がかかるといった話はないからだ。それが著作権の設計としてベストになっているかは分からないが、公金で小説家を養う場合よりはうまく機能していることだろう。

 いまひとつ別の論点だが、「研究になぜ公金をつっ込むのか」と述べる人の多くはそれを0円にしろと言っているのではなく、その具体的な対象と程度を問題にしているのではないか。なぜ支出の対象があちらの研究ではなくこちらの研究なのか。なぜ社会保障や防衛に予算を配分するのでなく研究なのか。なぜそれを納税者に返すのではないのか。納税者から強制的に資源を移転している以上、これらはすべて説明を要することだ。自分が公金で養われて当然であるかのような物言いを研究者が繰り返すほど、納税者の反発はより大きなものとなるだろう。

*1:ところで応用研究などでは知的財産権が認められる場合があり、実際それで稼いでいる研究機関や個人もあるはずだが、上の理屈で行けば公金で運営されている研究機関や個人は知的財産権を放棄すべきだろう。

*2:また、この想定のもとでは、たとえ公金で研究を助成したとしてもアンチコモンズの悲劇は生じる。