転売の利益の本当の源泉(あるいは転売屋の正義について)

チケットの転売で利益が生じるのは、主催者の設定した値段が転売屋のそれよりも低いからだ。しかし、なぜ低いのか?

 この問題について、お得な価格でライト層を新たに呼び込むことが長期的な利益につながるからだ、という見解をしばしば見かけるようになった。そういうことも実際ありうるかもしれないが、それこそが転売の利益の主な源泉であるという見解には、僕は全然説得力を感じない。

 というのは、第一に、長期的な利益なんて関係のない単発系のイベントのチケットもやはり転売の対象になっているという事実が説明しがたい。第二に、ライト層向けの価格設定は、実際には座席の質によって価格に差を設ける(例えばステージから遠い席は安くする)という形で行われていることが多いのではないか。この場合、上の見解に従えば、少なくともコア層向けの最もグレードの高い座席の転売からは利益は生じないはずである(そのような席をライト層向けのためにディスカウントすることは考えがたい)。が、そのような座席も実際にはやはり転売されている。

 もっといえば、転売というのはイベントのチケットに限らず、ほとんどあらゆる商品にみられるといっていいほど広範な現象であって、その源泉をイベント固有の要因に求めることが筋のいい考え方とは思われない。原油が転売されるのは新規顧客獲得のためにディスカウントしているからなのか? そうではないだろう。

 では転売の利益の本当の源泉はどこにあるのか? これが絶対の正解だと述べるのは難しいが、イベントを主催している人々に実際に聞いてみる方が、長期的利益云々などという話よりかは遥かに納得のいく回答が得られるだろう。「もっと高い値段でも売れると思いますが、なぜ安い値段で売るのですか?」と聞けば、彼らはこう答えるに違いない。「ひょっとしたらあなたの言う通りかもしれませんが、そうでないかもしれません。私はなるべく売れ残りを出したくないのです」

 つまり、これは在庫リスクの問題なのだ。価格をいくらにすれば何席売れるかを事前に正確に予測することはできない。売れ残りを少なくしようと望むなら、それだけ安めの値段を付けざるをえない。しかし世の中には主催者よりも楽観的な予測を立てる人々や、より高いリスクを取ってもよいと考えている人々がいる。彼らは主催者の設定した値段よりも高く売れる方に賭けてチケットを仕入れることができる。主催者よりも高い在庫リスクを引き受ける彼らを人は転売屋と呼ぶ。

 転売屋の得るマージンは、主催者が引き受けることを諦めて放棄した、在庫リスクのプレミアムである。だから、転売屋が主催者の設定した価格より高くチケットを売りさばいたとしても、転売屋が主催者の利益を横取りしたことにはならない。

 とあるコンサートの空席が転売屋のせいで多い、という記事をどこかで読んだ。けれども、転売屋だって売れなければ転売価格を仕入れ値以下まで下げるだろう。先に買った客からのクレームを考えなくていい分、値下げについては主催者よりも柔軟にできるとさえ言える。それでも空席が多いのは、転売屋がいなくても空席は多かったと考える方が自然だ。そうであれば転売屋たちは、そのコンサートの主催者に利益をもたらしている。彼らが高い在庫リスクを引き受けてくれたおかげで、主催者は座席の売れ残りに悩まされずに済んだからである。

3個のリンゴと彼女とのデートの効用は比較できる

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3個のリンゴと彼女とのデートの効用は数値では比較できない。それでも人間はその時その時の状況で選択し行動している。それが市井人の生き様というものではないか。

 彼女とデートする予定がある人に、3個リンゴをあげるからデートに行かないでくれ、と言ってみればいい。彼がそれを受け入れれば、リンゴ3個は彼女とのデートよりも大きな効用を彼にもたらすということになるし、受け入れなければ、彼女とのデートの効用のほうが大きいということになる。

 この効用を数値で表す必要はないけど、表したければ、例えばデートの効用のほうが大きい場合、デートの効用は2、リンゴ3個の効用は1というように適当な数字を割り当てればいい。現代のミクロ経済学では序数的効用といって、効用は大小関係にだけ意味があると仮定されている。別に数字の大きさ自体に意味を持たせなくてもミクロ経済学の体系は作れてしまうからだ。

 どうしても意味を持った数字で3個のリンゴと彼女とのデートを比較したいなら、X円あげるからデートに行かないでくれ、と言ってみればいい。徐々に価格を上げていって、例えば3万円でデートをやめるなら、彼にとって彼女とのデートの価値は3万円ということになる。これは彼がリンゴ3個に払う金額と普通に比較できる。*1

*1:全然余談だけど、行動経済学ブームについて言えば僕もあまり気分がノらない。行動経済学が好きな人って経済学が好きなんじゃなくて心理学が好きなんでしょ?

なぜ役務を無償で受けても課税されないのか

法人税法第22条 2.内国法人の各事業年度の所得の金額の計算上当該事業年度の益金の額に算入すべき金額は、別段の定めがあるものを除き、資産の販売、有償又は無償による資産の譲渡又は役務の提供、無償による資産の譲受けその他の取引で資本等取引以外のものに係る当該事業年度の収益の額とする。

 上の条文に規定されている通り、法人の無償取引に関して、あげた側では常に法人税が課されるのに対し、貰った側では資産の場合にだけ課税され、役務の場合には課税されない。例えば時価1億円の不動産をタダで貰ったら課税されるのに、家賃1百万円の事務所をタダで借りても課税されない。なぜだろう?

 この秘密は仕訳を考えれば明らかになる。タダで1億円の不動産を貰えば1億円の受贈益が発生する。

不動産1億円/受贈益1億円

 一方、タダで家賃1百万円の事務所を借りる場合、普通は仕訳を切らないが、仮に切るとすれば次のようになるはずだ。債務免除益が発生すると同時に支払家賃が発生し、債務免除益と支払家賃が打ち消し合って、結局課税所得が生じない。

支払家賃1百万円/未払家賃1百万円

未払家賃1百万円/債務免除益1百万円

  もう一度不動産を貰ったケースに戻ると、後々まで考えれば、不動産1億円もいずれは減価償却費や譲渡原価となって損金算入される性質のものだ。

不動産1億円/受贈益1億円

減価償却費1億円/不動産1億円

  家賃のケースと同じ形の仕訳になっているのがお分かりいただけるだろうか? 資産の譲受けの場合でも、後々まで考えれば、譲受けた資産は結局損金に化けるので、課税所得は生じない。

 言い換えれば、受贈益というのは、資産を譲受けてから資産が損金に化けるまでの時間差に課税しているのだ。資産は将来時点において用役を提供する――それが資産であるということの意味である――のに対し、役務を受ける場合には時間差がないので課税関係が生じない。

おまけ

ところで法人ではなく、例えば従業員が家賃1百万円の社宅を会社からタダで借りた場合、普通に給与所得として課税される。これは上の理屈と矛盾しているだろうか? そうではないだろう。この場合には支払家賃は居住用住宅の家賃となるし、そもそも給与所得からは経費が引けない。上の仕訳を使って法人税風に説明すれば、支払家賃が損金不算入となって債務免除益と相殺できなくなってしまうわけだ。

のれんの償却はなぜどうでもいい問題なのか

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日本基準ではのれんは毎期一定額が規則的に償却されるのに対し、IFRSではのれんの償却は行われない。のれんの価値が簿価を下回ったときに減損するのはどちらの基準も同じである。

 今、IFRSでものれんの償却の導入を検討する動きがあるようだ。のれんの価値が維持されるのは稀であり、どうせ減損することになるのだから、はじめから規則的に償却してしまえ、ということらしい。

 僕の周りの同業者にも、のれんはすぐに減損されるという経験則からのれんの規則償却を支持する人が少なからずいるみたいだ。が、僕の考えは違う。のれんの償却は情報として意味がなく、したがってそれを償却するかどうかというのは全然どうでもいい問題であり、仮に株価がそれに反応するとしてもそれは投資家の錯覚である。なぜか?

 財務報告の目的は投資家の意思決定に資する情報を提供することである。投資家に追加的な情報を与えない会計ルールには意味が無い。今、のれんを償却しない会計ルールが採用されているとする。この場合でも、のれんの取得日と当初測定額は開示されるのだから、規則償却したければ投資家の側でそのように調整することは容易である。これは、のれんを償却する会計ルールによって与えられる情報を、投資家がすでに知っていることを意味している。つまり、のれんの償却のルール化は投資家に追加的な情報を与えない。よって、のれんの償却ルールは無意味である。

 のれんの償却が唯一追加的な情報を与える可能性があるのは耐用年数だ。のれんの当初測定額を所与としたとき、毎期の償却金額を決める変数はこれしかないからだ。ところが、これは現場の実務に触れた人なら誰でも知っていることだろうが、のれんの耐用年数はで決まっている。20年はいくらなんでも長すぎるだろう、同業のあそこは5年でやってるらしい、10年先までは経営計画が作ってあるからまあいいだろう、くらいのノリである。のれんの真の耐用年数なんて経営者だって知らない。だから後々減損するのだ。

 よりよい会計ルールとは経営者の判断の余地がより少ないルールだ、という考え方は、会計ルールの存在意義を根本的に見誤っている。ただ一種類の会計処理が機械的に適用されるほかないなら、その会計処理は情報として価値を持つことができない。のれんの減損が情報として価値を持つのは、それが減損されないこともありえたからだ。毎期定額で償却されるに決まっているものの償却金額を開示することには意味が無い。だからのれんの償却ルールを導入するかどうかが何か重大な問題であるかのように議論されていることは僕には全く奇妙なことだ。のれんを償却するかどうかは、そのように調整したほうが企業価値をよりよく推定できるかどうかという投資家の側の問題であって、会計ルールの側の問題ではない。

累進所得税は応益負担か?

所得の多い人は、その所得を稼ぎ出すためにそれだけ多くの公的インフラを使用しているはずであり、したがって累進課税は応益負担の観点から正当化される、という見解を見かけた。が、この理由付けは相当無理がある、と思う。

 Aさんは(税引き前で)所得300万円のタクシードライバーであり、同じくタクシードライバーのBさんは所得900万円である。Aさんの納税額は20万円、Bさんの納税額は143万円となるが、BさんはAさんの3倍の所得を稼ぐために、7倍多く道路を走ったりしたのだろうか?

 またBさんの所得が330万円丁度になるときに受け取る1万円には1千円の税金がかかり、その次に乗せた客を全く同じルートで運んで受け取る1万円には2千円の税金がかかるが、前者の場合と後者の場合とで、公的インフラの使用にどのような違いがあるというのだろうか?

 さらに、AさんとBさんが結婚したとして、これまで通り300万円・900万円をそれぞれ稼げば納税額は2人合わせて163万円であるが、600万円ずつ稼ぐことにした場合には納税額は154万円となる。これまでBさんがしていた仕事の一部がAさんにそのまま移っただけなのに、公的インフラの使用が少なくなったなどとどうして言えるだろうか?

おまけ

 ついでにもう一つ。公的インフラの使用度が累進課税の理由なら法人税の累進というのも考えてよいはずである。もし累進法人税が創設された場合、企業は事業部ごと・地域ごと・店舗ごとなど分社化を進めてタックスブラケットを下げるに違いない。経済的実態がそのままに法的な立て付けが変わっただけで納税額が変化するのは応益負担に明らかに反する。これはまた、累進法人税が存在しないのに累進所得税が存在する理由を示唆しているように思われる。つまり、法人は分割できるが自然人は分割できない。

空襲と設備更新の誤謬

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戦後日本が米国を上回る高成長を遂げたのは、企業設備が空襲で破壊されたために、最新の設備に一新されたからだ、とかつて言われていたことがあった。この説には難点がある。別に空襲がなくたって設備を更新するのは自由だ。最新設備を導入すれば豊かになれるなら、なぜ米国はそうしなかったんだろう?

 稼働中の旧式設備には新設備と比べて明らかな利点がある。なんといっても導入のためのコストがゼロだ(だってもう導入している!)。だから新設備の方が優れているからといって直ちに設備を更新すべきではない。削減できるコストが導入のためのコストを上回っていなければ、古い設備を使い続けたほうがマシだ。

 当時の米国の設備更新が日本に比べて遅れていたとしても、それは企業の合理的な判断の結果だ。米国企業に設備更新を強制したとしても、それで米国が豊かになることはなかっただろう。また空襲による企業設備の破壊が日本を豊かにしたということもありえない。

  経産省が古いIT設備の更新を企業に促すそうだ。老朽化したシステムがもたらすコストの削減が目的だという。もし導入のためのコスト以上の効果があるなら、促されなくたって企業は自発的に設備を更新するだろう。さらにもし、設備更新に補助金を出すようなことがあれば、企業にまだ使うべき設備を廃棄させる無駄遣いを推奨することになる。それは空襲で豊かになれると思うのと同じ勘違いなのだ。*1

*1:ところで冒頭のニュースによれば、経産省の報告書は、設備を更新すればGDPが上がると言っているようだ。たしかに設備更新によってGDPは上がるかもしれないが、GDPはここでは適切な指標ではないだろう。GDP(Gross Domestic Product)はNet(純)に対してのGross(粗)であり、固定資本減耗(企業会計でいう減価償却)控除前の数値である。要するにGDPという指標では設備投資のコストが考慮されないのである。

時価会計有害説

 Fischer BlackがMagic in earningsという論文で時価会計について面白いことを述べていたのを見つけたので一部訳出する。 

証券アナリストは利益について明白な考えを持っている。彼らは標準的なPERを乗ずることで価値の推定が得られるような利益数値を求めているのだ。彼らはPERが何であるべきかを明らかにするために働きたくないので、それが例えば常に10であれば、彼らにとって明らかに最もうれしいことである。従って彼らは、単に10倍すれば企業価値の推定が得られるような利益数値を与える会計プロセスを好むだろう。

(中略)

 他方で経済学者が普通述べるところでは、利益は価値の変化に関係すべきであるといい、この見解は最近会計士の間で受け入れられつつある。通貨価値の変化による利得・損失の全額が損益計算書において開示されるべきであるというここ数年の動きは、価値についての経済学者の見解が受け入れられていることを示している。しかしながらこの見解に基づけば、企業の利益数値はより不規則で、企業の状態の測定値としてより役に立たないものになる。もし10を乗ずることで価値の推定が得られるような利益数値を求めるのであれば、その会計期間の通貨価値の変動による利得・損失を利益数値に全額で含めてはいけないのだ。

例えば企業が保有する資産の価値が2億円だけ下落したとする。これは明らかに企業価値を2億円だけ下落させる。しかしこの2億円の損失を全て純損益に反映させた場合、PERが10であれば、企業価値の下落は20億円に過大評価される。

 上の引用では通貨の評価替えについて述べているが、同じ理屈が有価証券の期末評価や減損損失についても言える。つまりこの理屈によれば減損損失というものは存在してはならないか、PLを経由せずにOCIに直入し、PL上は通常の減価償却を継続すべきことになる。