国境と経済と独立と収奪と

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カタルーニャが独立すればスペインはGDPの20%を失う。もちろん、これによってスペインの人々の生活水準が20%下がったりはしない。カタルーニャとその他のスペインは、政治が邪魔をしない限り、今まで通り経済活動を続けるだろう。

 そして税関が邪魔をしない限り、スペインとカタルーニャの間では今まで通り交易が行われる。僕とあなたが、お互いに得をするなら、僕らは自発的に取引をする。その間に国境があってもなくても関係がない。

 しかしスペイン政府は税収を失うことで損をするのではないか? そうかもしれない。しかしその懸念が正しければ、それはスペイン政府が、カタルーニャに与えるよりも多くのものを奪っていることを意味する。

 A国が豊かなB国を併合する。A国はB国から税を徴収する。ひょっとしたらA国はB国に道路や港湾を整備するかもしれない。しかしトータルではB国は損している。これは収奪である。仮に損でなくても押し売りである。

 この収奪は、併合が云百年前のことだとか、併合時には合意があったとか、あるいは実はA地域とB地域ははじめから一つの国だったとしても、そんなことで正当化できるだろうか。経緯はどうあれ現にAはBを収奪しているというしかない。

 スペインの他地域が経済的な損失を被るからカタルーニャは独立すべきでないという意見は、カタルーニャは他地域に収奪されることを許容せよと言っているのと同じことになる。

 独立を認めてもお互いの意思に基づく取引は今まで通り行うことができる。住民の求める独立を認めることができない理由は、その意思を無視して何かを奪ったり、押し付けたりするための他にない。

市場と政府と貧困の神話

神話がある。かつて自由放任の市場の中で人々は貧困に喘いでいたが、政府部門の拡大が市場の猛威を食い止め、人々を貧困から解放したという神話だ。これを神話と呼ぶのは話がまるごと引っくり返っているからだ。神話は出来事の後から作られるが、その出来事は初めから神の御業であったことにされる。

 かつて人々の暮らしが今より苦しかったのは、例えば製糸工場の女工の日記に表れている。けれどもその事実から、即座に搾取や市場の失敗を連想するのは誤っている。彼ら彼女らの暮らしが今よりも苦しかったのは、当時は今よりも生産性が遥かに低かったのだから当たり前である。

 大昔、人口の大部分が農地や漁村に縛り付けられていた。総掛かりで食料を生産しなければ生命が維持できなかったからだ。しかし分業や技術革新がより少ない人口で食料を生産することを可能にした。労働力の余剰が生まれ、それは商業部門や工業部門に供給された。そこでも企業家の活動が生産性を絶え間なく向上させ、さらに多様な財やサービスを生産することができるようになった。

 生産性の向上なしに政府部門を拡大すれば、その分民間部門の生産活動は圧迫されざるを得ない。巨大な政府部門が維持できるのは、人々の努力と市場の調整が生産性を改善し続けてきたからである。生産性の改善が貧困を一掃し、労働力に余裕が生まれたからこそ、僕らの経済は非生産的な部門の肥大化を許す*1贅沢ができている。その逆ではない。

*1:許した憶えもないけれど。

技術流出?

例えば東芝の半導体事業が海外資本に買収される。この「技術流出」によって東芝は特に損をしない。技術の分だけ高く売れるのだから。後から考えると安く売りすぎたということはあるかもしれないが、それはどんな取引にだって言える。

 海外への「技術流出」で他の日本企業が損をすることもない。ソニーやルネサスにとっては日本資本の東芝と競争していたのが、海外資本の(元)東芝と競争することになるだけだ。

 税収が減って日本政府が損をするということもない。利益が海外に流出することで課税ベースが減るように思われるかもしれないが、東芝の側では失った将来利益に見合うだけの売却益が生じるので、そちらに課税できる。

  誰かが何か損をするとすれば、日本の政治家や官僚が海外に「流出」した事業への影響力を失って、利権や天下り先が減ってしまうことはあるかもしれない。もちろん、それが守られるべきものだとは僕は思わない。

某アニメ会社による不正の簡単な会計的解説

GONZOの会計不正が今更ながら一部で話題になっていた。複数の不正の手法が用いられているものの、アニメ会社で発生した事例という観点からは製作委員会方式を利用した点が注目される。

 製作委員会方式の場合、アニメ制作会社や広告代理店など複数の関係者が出資をして製作委員会というハコを作る。製作員会はアニメを製作・制作し、そのコンテンツ利用から得られた収益をそれぞれの出資者に分配する。

 とはいえ製作委員会はただのハコであって現実にアニメを制作するための手足を持たない。製作委員会は実際のアニメ制作を制作会社に外注する。GONZOは製作委員会に対して出資者であり、アニメ制作の受注者でもある。

 GONZOが制作委員会に出資した際には次の仕訳が切られる。

  出資金/現預金

 なお出資金は資産項目である。株や有価証券と同じように考えれば良い。製作委員会にアニメを納品した際には次の仕訳が切られる。

  現預金/売上

 しかしこれはおかしい。二つ目の仕訳でGONZOが製作委員会から受領した現預金の少なくとも一部は一つ目の仕訳でGONZOが製作委員会に支払ったものである。すると計上された売上にはGONZOが自分で自分に支払った分が含まれている。これは売上から控除されなければならない。

 要するにこれは古くは子会社を使って行われていた典型的な不正スキームと同じである。子会社と親会社の間で資金を還流させ、親会社に戻ってきた資金を親会社の売上にしてしまう。

 連結会計が導入されてからはこのような不正を行う意味は薄れてしまった。製作委員会も任意組合であるから連結の対象になり得るが、今回のケースでは出資比率や議決権比率の関係で必ずしも連結の対象にならなかったと考えられる。

 もっともGONZOは自らが製作委員会の幹事会社となり出資に関する仕訳を省略した場合でもわざわざ

  コンテンツ資産/売上

 という仕訳を切っていたようであるから、連結したところで不正の抑止にはならなかったかもしれない。明らかに未実現利益であり、不正としてはお粗末である。

飲み会参加証券のプライシング

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*1

所得フローx_0, x_1, x_2, ..., x_t, ...... を生じる資産の価値(時価)は割引率をiとして所得フローの割引現在価値Σ(x_t/(1+i)^t)となる。例えばxを企業のFCFと見ればこれはDCF法によって求められた企業価値そのものである。企業価値は債権者と株主が分配する。あるいははじめから株主に帰属する所得フローだけを考えれば株主価値(理論上の株式時価)を直接求めることもできる。これは割引配当モデルである。

 飲み会も同様に考えることができる。上記所得フローを飲み会から得られる便益と考えれば飲み会参加者に帰属する割引現在価値が算定される。それは飲み会の適正な参加料と解釈できる。多くの場合飲み会は会を決行するその場で集金して解散するからその便益フローは例えば(5000円, 0, 0, 0, ......)となり参加料は単に5000円となる。参加者の支出とサービス受領が同時であるという単純さゆえにかえって分かりにくく思えるかもしれないが、参加料の支払いから飲み会当日まで時間が空くケースではその間参加者に純資産が生じていることは簿記上も容易に理解される。

 飲み会参加者と株主との類似性をより一層明瞭にしたいなら参加料の受領時点で幹事が参加者にその権利を示す受領証を付与することをイメージすれば良い。すると先の飲み会参加料の計算は受領証の株価を算定していることに他ならない。株という言い方が気に入らなければ単に証券と言っても差し支えない。飲み会参加の権利に証券を見出すのは突飛に思われるかもしれないがゴルフ会員権などと大差ない。ゴルフ会員権と株式が似ているように飲み会の参加の権利証と株式も似ているのである。飲み会参加料の受領証は多くの場合譲渡困難と考えられるがある種のゴルフ会員権や閉鎖会社の株式もそれは同様である。

 飲み会参加者を株主になぞらえるのをなお躊躇われているかもしれないが、別にそれは構わない。両者が何において似ており、何において似ていないのかが理解されれば呼び方はどうでも良い。その上で呼び方が一致しないのは会計や経済ではなく単に比喩についての言語感覚の相違を示すに過ぎない。ここで強調したいのは経済をフローとその割引現在価値(ストック)で捉える見方である。それ以外を捨象するところまで抽象レベルを上げれば株主と飲み会の参加者との差は消失する。

 さらに所得フローを公共投資プロジェクトから生じる納税者の便益と見れば冒頭の式から当該公共投資プロジェクトの割引現在価値を算定することができる。これもまた突飛な発想ではなく実際に政策の現場で行われている費用便益分析そのものである。割引現在価値がプラスのとき(のみ)公共投資を実行すれば納税者に帰属する価値が増加する。これはDCF法で算定した価値がプラスの投資プロジェクト(のみ)を実行すれば株主価値が増加するのと同様の形式をしている。ただし抽象度を下げて考えれば株主は原則平等に扱われるのに対し公共投資プロジェクトでは特定の納税者が利されている可能性はある。それは別途考慮される必要がある。

 もっと話を広げるなら人々が生み出す労働サービスの価値フローを割り引けば人間自体を資産と考えてその価値を算定できる。他にもこの世には無数の有形無形の財・サービスのフローが存在する。現実にそれらすべてを書き下すことはできないが、それら一切のフローの割引現在価値として世の中に存在するすべての富の価値を記述するバランスシートが理論上存在する。これがアーヴィング・フィッシャーの洞察だった。そこに経済学と会計学の架橋がある。

*1:id:tamurin7 個別のコメントに直接応答するのは基本的に控えるようにしていますが、よくこのブログを見てくれているようなので特別にお返事します。

教育が投資であることは国債で資金調達すべきであることを意味しない

【日本の解き方】「こども保険」に反対する財界、さらなる法人税率引き下げ&消費増税の支持の政治的立場 (1/2ページ) - zakzak

企業経営の発想からみると、有効な投資であれば借り入れで賄うはずであり、税で賄うという発想は出てこないはずだ。(上記リンクの記事より)

国の教育支出に関して、最近、しばしば上のような主張を見かける。つまり、企業であれば投資は負債によって資金調達する。国が行う教育も同様に投資であり、したがって税ではなく負債である国債で資金調達すべき、という主張だ。

 けれどこの主張は前提から間違っている。企業の投資(=資産の形成、BSの左側)は負債(銀行その他からの資金調達)によって賄われても、純資産(株主からの資金調達)によって賄われても、いずれでも構わないからだ。

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 国は納税者が資金を拠出しあって運営されており、だから企業にとっての株主は、国にとっての納税者に相当する。実際、国の財務書類はそうなっていて、税財源は国の純資産増減のプラス項目になる。*1

 設備投資を新株発行で賄うことが企業の選択肢になるように、教育投資を税金で賄うことは国の選択肢になる。投資だから国債だという単純な話は成り立たない。国債か税かという問題はそんなことでは決着しない。

*1:税財源は資本の拠出ではなく売上に相当するものではないか、と言う意見があるかもしれない。僕はその意見は成り立たないと考えるが、仮にそれを認めるとしてもこの記事の議論は崩れない。売上だとしても結局、PLを経由して純資産に組み入れられるからだ。企業との対比で言えば、内部留保による資金調達を設備投資に回すことが可能なのと同様である。

1円スーパーを擁護する3つの物語

野菜を1円で販売 愛知のスーパー2社警告へ 公取委 :日本経済新聞

商品を継続して原価割れで販売しており、公取委は、他社の事業活動を困難にする恐れがあるとして規制される「不当廉売」に当たる疑いがあると判断したとみられる。(上記リンクの記事より)

その1

あるスーパーはサプライチェーンを見直すことで、より新鮮な野菜を従来と同じ値段で提供することに成功した。このスーパーの繁盛は他のスーパーの「事業活動を困難に」したが、それはこのスーパーが消費者に価値を提供したからだ。

  別のスーパーは販売価格を下げることで、従来と同じ品質の野菜をより安価に提供することに成功した。このスーパーの繁盛は他のスーパーの「事業活動を困難に」したが、それはこのスーパーが消費者に価値を提供したからだ。

その2

あるスーパーは毎週100万円の費用をかけて派手な新聞チラシをバラ撒いた。この広告宣伝効果は他のスーパーの「事業活動を困難に」したが、だからといってこのスーパーが非難されるいわれはない。

 別のスーパーは毎週100万円分の派手な値下げで大勢の客を呼び込んだ。値下げした商品自体は採算割れでも広告宣伝効果があったからだ。この値下げは他のスーパーの「事業活動を困難に」したが、新聞チラシ同様非難されるいわれはない。

その3

ある資産家が貧しい人々の不健康な食生活に心を痛め、人々に無料で野菜を配布する活動を始めた。人々は彼の慈善活動を賞賛したが、さすがに無料では申し訳ないとある者が資産家に申し出た。

 そこで資産家は1円だけ代金を頂くことにした。無料で賞賛されることなら、1円でもそれはやはり賞賛されることだ。しばらくして彼の家に役人が現れた。役人は資産家を、他社の「事業活動を困難に」した由でしょっぴいてしまった。