日本のGDPシェア推移の要因分解(vs G7)

日本のGDPシェアが低下して大変だ云々という話がはてブでバズっていた。どうしてGDPそのものじゃなくシェアの方にみんな興味があるのかは謎だ(後者は前者が持っている情報量を無駄に潰しているだけじゃないの?)。

 GDPシェアの変化(ポイント)は 、ある国のGDPをY、世界のGDPをアスタリスク付きのYで表すと (どちらもあらかじめドル換算しておく)、

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 要するに世界全体のGDP成長率よりも日本のGDP成長率が高ければ日本のGDPシェアは拡大し、低ければ縮小する。ふつう先進国のGDP成長率よりも発展途上国のGDP成長率が高いので、発展途上国がキャッチアップしてくる過程で先進国のGDPシェアが縮小するのもふつうである。

 右辺の括弧内をソロー分解すると

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 すなわちある国のGDPシェアの変化は、その国の全要素生産性(Multifactor productivity, A)の成長率、資本投入(Total capital service, K)の成長率、労働投入(Total hours worked, L)の成長率が、全世界におけるそれぞれの成長率をどれだけ上回ったかという3要因に分解できる。

 先の理由で途上国含む全世界のGDPと比較してもつまらないので(そして全世界のGDPをソロー分解できるデータもないので)、ここからは全世界のGDPの代わりにG7のGDPを使用し、G7における日本のGDPシェアの変化を分析する。

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 G7各国におけるGDPシェアの推移はグラフの通りであり*1、日本のシェアは1995年から2017年のあいだに17.1%から13.9%へ3.2ポイント低下している。

  上の式を使って日本のGDPシェアの変化を各要因に分解すると次の通り*2。一応解説すると、例えば1995年ならMFPの成長(第一項)と資本投入の成長(第二項)はプラスなのでG7に勝っており、労働投入の成長(第三項)はマイナスなので負けていて、それらのトータルとしてシェアは黄線のポイント分だけ拡大している。

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 ついでに米国。

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 そして1995~2017年の増減の合計。左が米国で右が日本。

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 すなわち最初のグラフで示した日本のGDPシェア3.2ポイントの低下は労働投入の寄与マイナス2.4ポイントで7~8割方説明可能で、残りはMFPの寄与プラス0.2ポイント、資本投入の寄与マイナス1.0ポイントによって説明される。

 日本の生産性は低いといわれがちだが、実はここ20年のMFP成長率に関する限りG7平均には打ち勝っていることが分かる。*3問題の大部分は労働投入の減少で、これが少子高齢化の反映かどうかは別途考察を要するが、きりがいいので別の機会にしよう。

*1:USD, constant prices, 2010 PPPs。冒頭で言ったように、僕はGDPシェアを見ることにあまり意味を感じないので、GDP自体の推移も貼っておく。日本のGDPは1995年から2017年の間に1.2倍に拡大している。

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*2:ソロー分解の結果はOECD.statのProductivityから持ってきた。

*3:絶対的な水準ではもともと低いという問題はあるにせよ。

信用創造の話2

無リスク世界を想定するなら、企業と家計が直接やり取りする場合(ケース1)と銀行による信用創造(ケース 2)は同じことになるだろう、というのが前回の話だった。今回はシンプルな2期間モデルを示す。説明を簡単にするために限界変形率(生産可能フロンティアP.P.F.の傾き)一定を仮定する。

 まずはケース1から。第1期において、家計は財の初期保有Iの一部を企業に売却し、交換に企業から手形Sを購入、残りのC1=I-Sを第1期のうちに消費する。企業は第2期までに生産活動を行い、財を増殖する。第2期において、家計は手形を企業に売却して財を購入し、消費する。第2期における消費量をC2であらわす。

 家計は限界代替率(無差別曲線I.C.の傾き)が手形の利子率1+rよりも大きい(小さい)限り手形の購入額を減らす(増やす)ので、限界変形率=限界代替率=1+rで均衡する。この均衡はパレート最適である。

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 これはごく普通の経済学で扱われる2期間モデルそのものだ。経済学は商品貨幣を想定している(だから非現実的である)などと言われることがあるが、僕には全くの冤罪としか思われない。上のモデルでは決済は貸借(手形)によって行われ、商品貨幣は登場しない。各経済主体のBSの推移は次の通り。

 

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 つづいてケース2。第1期において、企業は銀行から借入を実行して預金証書を入手する(信用創造)。家計は財の初期保有Iの一部を企業が手にした預金証書Sと交換し、残りのC1=I-Sを第1期のうちに消費する。企業は第2期までに生産活動を行い、財を増殖する。第2期において、家計は預金証書で企業から財を購入し、消費する。第2期における消費量をC2であらわす。企業は戻ってきた預金証書で銀行からの借入を返済する。

 なお利子率は単一で、銀行の貸出利子率と預金に付される利子率は等しいとする。無リスク世界では銀行がリスクプレミアムを取れないので妥当な想定だと思うが、単に簡単化のために仮定したと考えてもらっても構わない。また手形の場合(ケース1)との比較が簡単にイメージできるように預金”証書”としたが、普通口座間の振り込みを考えてもらっても事態に変化はない。

 家計は限界代替率(無差別曲線I.C.の傾き)が預金の利子率1+rよりも大きい(小さい)限り預金額(預金証書の購入額)を減らす(増やす)ので、限界変形率=限界代替率=1+rで均衡する。この均衡はパレート最適である。

 先ほどのケース1と同じことが起きているのが分かるだろうか? 図は全く同じなので再掲しない。各経済主体のBSの推移は次の通り。

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 信用創造そのものは企業と銀行が互いに同額の債権債務を持ち合うことになるだけで、ネットの債権債務関係を全く変化させていない。それが変化するのは企業と家計が取引した時点だが、それはケース1における手形の発行と丁度同じ変化を引き起こすだけだ。経済学が信用創造を無視してきたというのは誤りで、銀行の存在を短絡させてケース1のように考えても同じなので、単に明示的に取り扱う必要がなかった。

 最後に。ケース1では、家計が手形Sを第2期に持ち越さなければ企業の生産は不可能だったという意味で、家計の貯蓄が企業の投資をファイナンスしていた。同様にケース2でも、家計が預金Sを第2期に持ち越さなければ企業の生産は不可能である。現在の消費にしか価値を見出さないキリギリス星人は、第1期において預金証書と財との交換に応じないか、あるいは第1期のうちに企業に預金証書を突き返して財を買い戻してしまう。結局、家計の貯蓄が他部門の投資をファイナンスしているという話は信用創造の場合でも普通に正しい。

信用創造の話

信用創造とは銀行が貸付を行うことだ。このとき貸付と同額の預金が借手の口座に振り込まれる。銀行と借手がそれぞれ次の仕訳を切ることだ、といってもいい。

銀行: 貸付/預金

企業: 預金/借入

 ある論者はこれをみて、貯蓄(預金)は貸付と同時に創造されるのだから、銀行の貸付は家計の貯蓄に制限されないのではないか、という。また別の論者は、際限なく預金を生み出せることが過度のインフレを引き起こすのではないか、という。

 僕は単に次のことを指摘したい。上の仕訳では、何も起こっていない。銀行が借手に対して債権を持ち、同じ相手に同額の債務を負う。僕があなたに100万円を払いますという証書と、あなたが僕に100万円を払いますという証書を交換しても、その時点では何も起こっていないといっていい。

 何かが起こるのは次の時点だ。借手(企業だとしよう)がその資金を元に、家計から土地を購入する。ここで銀行が債権を持っている相手と債務を負っている相手が初めて捩れる。仕訳は次の通り。

家計: 預金/土地

企業: 土地/預金

各主体のBS増減をまとめると次の通り。

企業: 土地/借入

銀行: 貸付/預金

家計: 預金/土地

 2点指摘したい。1つは、無から有が生まれたのではないということ。企業が事業に使用するだろう土地は、そうでなければ家計が、家を建てるなり趣味の園芸に使うなり他のことに使えた。企業の土地への投資は、家計がそれを放棄することで初めて可能になっている。

 2つ目は、ここで起きたことは銀行の信用創造を持ち出さなくても、企業と家計の直接のやり取りで擬制できるということ。要するに、企業が家計から土地を譲り受け、対価として自ら発行した証書(手形を考えてもいい)を引き渡すのと同じことだ。その証書は預金と同じように貯蓄であるし、なんなら(割引かれるかもしれないが)決済に使ってもいい。

 さきほどのBSを使って言えば、銀行は左手の債権で企業の右手と手を繋いでおり、右手の債務で家計の左手と手を繋いでいるだけなので、短絡させてしまっても別に同じだろう、ということだ。

 何が言いたいかおわかりだろうか? このような擬制が可能だということは、つまり、銀行の信用創造は貯蓄・投資において、本質的な(それなくしては説明できないような)役割を持っていない、ということだ。だから冒頭の論者たちの疑問は、家計と企業が直接やり取りした場合と同じ答えを持つはずだし、また家計と企業が直接やり取りした場合を経済学が説明できているのなら、それはすでに銀行の信用創造をも説明できていることになる。実際のモデルに即した説明は、長くなるので別の記事にしよう。

 最後に、それなら銀行は一体何をしているのか? 思うに、無リスク世界では間接金融としての銀行は存在しない。それは単に借手と貸手を引き合わせる仲介業者と区別がつかない。無リスク世界では手形はリスクによって割り引かれることもないので、安全な決済手段としての預金も無用である。

 逆に言うと、銀行の本質的な役割はリスクある証書や手形を安全な預金に変換することにある。リスクが消えてなくなるわけではないから、その分のリスクは銀行が負っており、それが融資の金利と預金金利の差で、銀行の儲けになる。

 仮想的に次のような銀行設立のストーリーを考えてもいい。企業と家計が直接やり取りする場合の手形を人々が持ち寄って、交換に預金証書を受け取る。これは結果的に、銀行が信用創造したのと同じことになる。預金は手形のスープである。手形の価値は企業の事業の成否によって変動してしまうが、一部の者が銀行の株主となり、その変動を吸収することで預金の価値を安定させる。

 貯蓄・投資は手形の発行時点で形成されていたので、銀行の信用創造で貯蓄や投資が生まれたわけではない。ただ預金者と株主の間でリスクが移転しただけである。信用創造という言葉で預金の創造を意味するなら、要するにそれが信用創造の機能だろう。

”債務負担についての誤謬”(3/3)

前回に引き続き、ブキャナン*1とワグナーの"Public Debt in a Democratic Society"から、"The Fallacies of Debt Burden"を紹介する。今回は第3回で、最終回。以下翻訳。

 

移転的支出の誤謬

 「我々は我々自身から借りているのだ。」これは内国債がコストを時間的に先送りすることを否定する人々や、内国債は外国債や私的な債務とは異なる種類のものだと主張する人々の議論において繰り返されてきたフレーズである。これは今まで議論してきたものよりもいっそう現代風味の議論の行き詰まりに注意を向けさせるものである。ポストケインジアンが国民会計を強調するのは、君臨するこの知的混乱に部分的な原因がある。国民会計の下では、バランスシート及びインカムステートメントは、それぞれの個人についてではなく、ある程度恣意的な政治的境界に基づき集計される。個人の勘定の借方と貸方はしばしば互いに相殺されるので、その限りにおいて、それらは一国の集計に影響することがありえない。

 このことが内国債の負担について、次のような誤った議論に信憑性を与えてきた。もし公債証書を保有する人々が国民経済の内部に住んでいるなら、その経済の内部から税金を徴収して彼らに対する利払いを行うことは、所得ではなく移転支出として扱われる。この移転をなすにあたって、いかなる資源も使い切られていない。つまり、この利払いは現在の財やサービスと引き換えになされたものではない。

 ここでの誤謬は、国民会計の慣例における特定種類の支払の取り扱いが、公的な財の機会コストの在り処をいくらか変更してしまうという事実の中にある。これらの慣例は恣意的であり、それらの多くが重大な批判の対象となる。政府が(即ち集合的に組織された立場においての個人が)債務をデフォルトすることを選ばないのであれば、内国債に対する支払が移転的支出であるという性質は、コミュニティのメンバーである個人の経済的環境を全く変更しない。

 国内で保有されている私的な債務に対する利息の支払いは(家計間での支払いを除いて)国民所得に含まれる。しかし、これらは公債に対する利払いと厳密に全く同じ意味で移転である。いずれのケースでも、利息の支払いは、借り手=債務者としての立場での個人から、貸し手=債権者としての立場の個人への移転を表している。いずれのケースでも、これらの支払は契約に基づくものである。単に国民会計上の便宜として、これら二つのタイプの支払のうちの一つのタイプだけが明示的に移転として扱われるという事実は、債務の負担を分析するうえで全く意味を持たない。

 

債務負担の原則のまとめ

 公債のシンプルな原理*2を否定してきた、回りくどく、時として邪な議論は、いくつかの関連した論理的推論上の誤謬に基づいている。これらの誤謬を追いやることは、周知の事実であるこの原理の有効性を、より強固に打ち立てることに役立つ。この原理は先に述べた、誤った結論のそれぞれを反転させる形式でまとめることが可能である。流行の議論とは対照的に、我々は次のことを結論付ける。

(1)ファイナンス手段としての公債は、政治的コミュニティのメンバーである個人に、公的な財の客観的機会コストを先送りすることを可能にする。公債発行時の負担は時間的に(訳注:将来世代などに)先送りされる。

(2)内国債と外国債の間に本質的な違いは存在しない。

(3)公債と私的な債務(訳注:家計や企業の借金)は最も基本的な性質において類似している。前者においては、個人は市民としての立場で資金を借り入れる。後者においては、個人は私的な経済的単位としての立場で資金を借り入れる。

*1:1986年ノーベル経済学賞受賞。

*2:訳注:翻訳箇所に先行しておこなわれた著者ら自身の議論を指している。

”債務負担についての誤謬”(2/3)

前回に引き続き、ブキャナン*1とワグナーの"Public Debt in a Democratic Society"から、"The Fallacies of Debt Burden"という議論を紹介する。第2回となる今回は、「外国債は負担を生じるが、内国債は負担を生じない」という見解について検討が加えられる。以下翻訳。

 

内国会計の誤謬

 密接に関係している、しかし別の議論が、公債の負担に関する3つの誤った結論を支えている。ここにある中心的な誤謬は単に会計についてのものである。

 先述した公債負担の分析*2では、公債が発行されたとき、誰がそれを購入するのかについては注意が払われていなかった。基本的な原則についての冒頭のサマリーでは、公債を購入する人々が市民か外国人かは、何ら違いを生じない。このレベルの議論では、内国債(internal (domestic) public debt)と外国債(external (foreign) public debt)はほぼ完全に無差別である。いずれ場合でも、有権者=納税者=受益者としての立場においての個人は、貸し出す意思を示した他の個人から資金を借り入れる。貸し手が、状況によっては、借り手と同じ政治的集団のメンバーであるかもしれないという事実は、この分析にとって関係がない。両者が政治的に同一のグループであれ、個人は借り手と貸し手という二つの異なる立場において振舞うだろう。

 我々が提示したシンプルな分析とは際立って対照的に、公債の負担についての3つの誤った結論に至る議論は、国内で保有される(internally-held)公債と国外で保有される(externally-held)公債との区別に決定的に依存している。外国人による国債の購入と保有に関する議論については、つまり外国債については、異論を唱えるべき点は比較的少ない。大部分の学者は、普通の市民と同様に、基本的な原則を受け入れている。外国債はそれによってファイナンスされた公的な財の機会コストを先送りすることを可能にし、そのコストは発行後の期間において支払わなければならない利息と償還費によって測定される。このことから、外国債はその本質的な点において、私的な債務と類似していると認められる。

 論争は内国債の負担についてのみ生じる。内国債は負担の先送りを生じさせないし、本質的な点において外国債や私的な債務と異なるものだと主張されている。

 どの時点において債務負担が生じるかということが、誰が公債を購入するかということに、なぜ決定的に依存しなければならないのか? なぜ外国債は内国債と根本的に異ならなければならないのか? 米国債を購入するのがロンドンの銀行かドイツのビジネスマンかということが本当にそれほど重要なのか? この違いが米国の納税者の経済的状態にどうやって影響するというのか?

 ここにあるのは単純な会計についての混乱であり、例を示すことが解決の助けになるだろう。

 A氏とB氏という、あらゆる面において同等と仮定される2人だけから成る小さなコミュニティを考えよう。公債の発行前には、2人の市民のそれぞれのバランスシートは次の通りである。

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 今、コミュニティ(AB)が、公債の発行によって公的な財のプロジェクトをファイナンスすることを決定するとしよう。話を簡単にするために、このプロジェクトは100ドルのコストによって100ドルの便益を生む、と仮定する。さらに、便益はAとBが等しく分けあうと仮定する。

 今、内国債が発行されたとする。A氏が100ドルの公債証書を購入するとしよう。プロジェクト実行直後、2人のバランスシートはどのようになるだろうか? 

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 公的支出と公債発行の両方を実行した結果として、2人の純資産はそれぞれ全く変化していないことに注意しよう。この点はプロジェクトの便益がコストに等しいという仮定によって保障されている。もしプロジェクトがより便益の大きいものであることを仮定すれば、当然2人の純資産は増加するし、その反対も言える。

 この結果を、公債が外国人に売られた場合の結果と比較しよう。先程と同じ公的プロジェクトについて、それを実行した後のAとBのそれぞれのバランスシートを考えよう。

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 これらの基本的なT字勘定から導かれる結論は明らかである。内国債の場合と外国債の場合とで、2人の純資産に違いは存在しない。

 この極めてシンプルな会計的同一性が、これら二つの公債の形態の間に重要な違いがあると主張する論者によって暗に否定されてきたのはなぜだろうか? 既に議論したように、リアル・コストの誤謬に責任の一部がある。公債証書が外国に売却されたとき、公的な財を生産するための資源は、政治的共同体の経済的境界の外側からもたらされる。そこには政治的国境を跨ぐ、物理的に観察可能な資源のフローが存在している。最初の期間、すなわち公債証書が発行され、公的な財が建設される期間においては、その経済の内側にある資源は、つまり国内の資源は、公的な使用に振り向けられない。このような物理的資源のフローだけを皮相的に眺める観察者にとっては、この最初の期間にはリアルなコストが発生していないように見える。コミュニティのメンバーは誰も、私的な財やサービスに対する支配を放棄したり犠牲にしたりしているところを観察されない。バランスシートで見た場合に、外国債と内国債とで厳密に同一のことが起きているという事実は、ほとんど全く見過ごされてきた。

 この見過ごしは、債務の負担について誤った問題を提起しがちな学者たちによって強化されてきた。彼らは存在している債務を保有していることの負担を定義することに不当に集中しているが、そうではなくて、創出されようとする潜在的な債務の負担が正しく問題にされるべきなのである。もし公債が存在しているのであれば、それが国内か国外かいずれで保有されるものであっても、当然、負担である。しかしこの負担ないしコストがどこに生じるのかは、新規の債務の発行や既発の債務の償還についての意思決定がなされる場合に、その場合にのみ問題にできるのである。

 もし存在している公債の負担を定義することのみに関心が集中すれば、内国債と外国債は異なった影響を及ぼすように見え、内国会計の誤謬はより捉えがたくなる。外国債の利子を払い、償還を行うためには、資源は政治的単位の境界を越えて移転されなければならない。つまり支払は公債証書を外国で保有する人々に対してなされる。公債証書が領域内の市民によって保有され、利払いと償還がその経済の内部で行われる場合にはその必要はない。この明らかな違いから、他の条件が等しければ、外国債は内国債よりもいくらか「負担が重い」といえるかのように見える。

 この一見問題のない分析は、この状況では、他の条件が等しいことは不可能であるという事実を無視している。このことを明瞭にするためには、存在している債務がかつて発行された期間に立ち戻り、先にシンプルなT字勘定を使っておこなったように、個々人のバランスシートへの影響を追跡する必要がある。外国債が発行されたとき、つまり公債証書が外国人に売却されたとき、資源はその経済の外部から流入する。これらの追加的な資源は、内国債の場合には公的な財の生産に使われ得ていたであろう国内の資源の代わりに使われるものである。したがって国内経済には内国債の場合よりも多くの資源が投下されたまま残っており、これらの資源は、借入が競争的な条件で実施されたとさえ仮定すれば、外国債に対する利子の支払いを為すのに十分なリターンを生む。負債によってファイナンスされた公的支出の生産性に関わらず、公債証書以外の形態で保有される市民個人の請求権は、同じ金額の内国債が発行された場合の請求権よりも、ちょうど対応して高くならざるを得ないのである。これらの資産は国外で保有されている債務に対する利子を支払うのに十分な資源を供給するだけの標準的なリターンを生む。ひとたびこの事実が認識されれば、外国債がより「負担が重い」と論じることは不可能である。(最終回「移転支出の誤謬」に続く)

*1:1986年ノーベル経済学賞受賞。

*2:訳注:前回も注をつけたが、これは翻訳箇所に先行しておこなわれた著者ら自身の議論を指している。

”債務負担についての誤謬”(1/3)

今回から3回にわたって、ブキャナン(1986年ノーベル経済学賞受賞)とワグナーによって1967年に著された"Public Debt in a Democratic Society"から、"The Fallacies of Debt Burden"と題された議論を紹介する。第1回となる今回は、「負担とは現在の資源の減少であるから、公債の負担が将来に転嫁されることはない」という見解(リアル・コスト説)が検討される箇所である。以下翻訳。

 

債務負担についての誤謬

 上記のシンプルな原理*1を受け入れることに対してなお拒否する経済学者さえいなければ、「公債の負担」についてこれ以上議論すべきこともなかっただろう。この拒否反応は絡み合った一連の誤謬に基づいており、批判的かつ慎重な検討を要する。これらの誤謬を打ち捨てることは重要である。分析家の間で意見の一致が生じつつあるにもかかわらず、これらの誤謬は今なお経済学の初級教科書の多くに見つけることができる。それだけに、債務負担のシンプルな分析を否定する意見の説得力に注意が払われるべきである。

 いくつかの誤謬が組み合わさることで3つの関連した結論が生み出されているが、それぞれが単に間違っている。間違った結論とは次のようなものである。

(1)公債の負担が時間的に(訳注:将来世代などに)先送りされることはない。

(2)内国債の影響は外国債と根本的に異なる。

(3)内国債を私的な債務(訳注:家計や企業の借金)に喩えることはできない。

これらの誤った記述をすべて含んだ教科書も存在する。その背後にある分析には、実際、説得力がある。その議論は凝ったものであり、誤謬が捉えにくくなっている。

 

リアル・コストの誤謬

 コミュニティ全体にとってのコストないし負担を先送りすることは不可能であるという議論が、18世紀からさまざまになされてきた。この見解では、経済的資源の物理的な使用に力点が置かれる。公債は歴史的には戦費の支出に関連しており、他ならぬこの議論は、負債によってファイナンスされた戦争経費の負担に着目してきた。銃を作るための鉄など、軍事装備に転換される資源は、銃が生産された期間においての経済それ自体から持ち出されたものでしかありえない、とこの議論は述べる。この観点からするとコストの先送りは不可能である。戦費支出のリアル(実物的)なコストは、銃を生産するために諦めなければならないバターのような、民間の財の現在の減少に代表される。戦費支出のリアルなコスト、つまり負担は、実際のファイナンスの手段が課税であれ、通貨インフレであれ、債務の発行であれ、必然的に現在のものである。

 一見したところでは、この議論には実際に説得力があり、そこに含まれる誤謬は容易には認められない。関心が集計的な影響に限定されている限り、この議論に間違いはないように見える。国民会計(National Accounting = 国民経済計算)の用語で言えば、公的支出の増加は公的部門ないし政府による資源の使用の増加を意味し、民間の支出と民間による資源の使用は減少する。この変化は公的支出のファイナンス手段に関わらず生じる。債務と課税とは公的な財のコストを配分するための代替可能な手段であり、これら2つの手段の間で、コストの負担先に関する時間的な違いは無いとされる。

 ここにある誤謬を捉えるには、先に強調した定義的手段的な問いに立ち返らなければならない。もし公債が、全体としては、公的な財の機会コストを先送りしないのであれば、誰がそれらのコストを払っているのか? もしこれらのコストが、資源が使用された期間において生じなければならないとすれば、コミュニティ内のどの個人やグループが、公的な財と交換に私的な財を諦めているのか?

 銃を製造するための資源はどこからやってくるのか? この議論(訳注:リアル・コスト論)によると、政府の証券を購入する人々、つまり公債証書を購入する人々が公的な財のコストを負っていることになる。しかし本当か? これらの人々は、債務の創出と公的な支出が行われる期間において、私的な財に対する支配を放棄している。このことは疑う余地がない。その意味において、これらの人々はコストを負っており、負担を背負っている。だが何の目的で? 彼らは私的な財を犠牲にするのと交換に、何を確保しているのか? この問いは、リアル・コスト論の推進者からは発せられなかったものだ。

 ひとたびこの問いが立てられれば、この議論の弱点が明らかになる。公債証書を購入した個人は、公債証書に具体化されている将来の所得の約束と交換に、私的な財を放棄している。彼らは決して、公債の購入者としての立場においては、債務の創出によってファイナンスされた公的な財のために何かを放棄したわけではないのである。彼らは、公債の購入者としての立場においては、財政上の交換に直接的に参加してはいない。

 リアル・コスト・アプローチは、公債には二つの別個の交換が含まれているという事実を隠している。基礎的な財政上(fiscal)の交換においては、個人は、有権者=納税者=受益者として、将来の期間において公債の利子と元本を支払うという自らの約束と引き換えに、公的な支出による便益を確保している。派生的な金融上(financial)の交換においては、個人は、公債証書の購入者として、現在の期間における自らの購買力の犠牲と引き換えに、将来の所得についてのこれらの約束(訳注:上記の納税者の約束を指す)を確保している。公債証書の購入者は将来の所得を確保するために現在の私的な財を諦めているのであって、公的な財を確保するためにそうしているのではない。有権者=納税者は現在の財を諦めているわけではなく、将来の期間において私的な財を放棄することを約束することによって、公的な財の便益を確保している。将来の納税者が、公債の保有者に対して支払を実施するときに、これらの(訳注:公的な)財に対しての支払を為すことになる。

 公債証書の購入の本質について述べるとき、この二重の交換がはっきり明らかになる。証書の購入者は、この過程において、私的な財産の純減を被らない。実際の公的な支出がなされた期間において、購買力を放棄する他の誰かがいるわけでもない。もしいかなるコストも先送りされていないなら、この支出は犠牲無しにファイナンスされたことになる。このような理屈が成り立つなら、どうして税金が徴収されなければならないのか? 税金によるファイナンスの場合では明らかに現在のリアルなコストが生じるのであり、私的な財産の減少を受ける個人が存在する。いずれの場合においても公的な支出が高い便益を生むと仮定しよう。税金によるファイナンスでは、これは私的な所得と財産の減少によっていくらか相殺される。公債によるファイナンスでは、もしリアル・コスト論が成り立つのであれば、相殺が生じる必要はなく、つまり私的な所得と財産が公的な支出の便益と相殺に減じられることはない。国民会計は個人のバランスシートに対する影響にも注意を払うべきである。それが為されたとき、公債についての基本的な原理は明白となり、リアル・コストの誤謬は見られなくなるだろう。(次回「内国会計の誤謬」に続く)

*1:訳注:著者らがこの節に先立っておこなった議論を指しているが、それを知らなくともこの節を読むの支障はない。

日本の労働生産性に関する基本的な事実

今から言うことは大した話じゃないけど、巷の議論を見ていると意外に共有されていないようなので記事にしておく。なおここで労働生産性はGDP per hour worked (USD, constant prices, 2010 PPPs)を使っている。 

日本の労働生産性は昔から低い

他の主要先進国と比べて一貫して低い。ジャパンアズナンバーワン等と言われた頃でも普通にG7最下位だった。バブル崩壊や失われた20年で順位が下がったわけじゃない。

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失われた20年の間も労働生産性は上昇している

上のグラフの通り、労働生産性は2007から2009年の期間と2015年から2016年の期間に低下したのを除き、バブル崩壊後も上昇を続けている。

労働生産性の成長率は漸減している

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 グラフは労働生産性の成長率(対前年)。長期的な趨勢として日本の労働生産性の成長率は低下している。ただし、これは欧州の先進国も同様。米国はあまり低下していないが、1970年の時点でもともと高くなかった。単に、経済が成熟するにつれて収益機会が減少するというだけのことだと思われる。

2000年代の成長率では日本の一人負けというより米国の一人勝ち

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1枚目のグラフを2000年=1.0として書き直したもの。2000年代の日本の労働生産性の成長率は他のG7諸国と比べても遜色がなく、むしろ上から数えたほうが早い。日本が低いというより米国(特に2000年代前半)の調子が良すぎた。その米国も近年はやはり停滞気味だが。