自由経済は不道徳か?

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 自由な経済はいつだって無理解に苦しんできた。曰く、自由な経済には正義や道徳がない。自分の利益のために欺き、蹴落とし、出し抜く世界だ。だから正義や道徳は政府が育まなきゃいけない。文化や教育への公共投資が、市場の見えざる手では掬えない正義や道徳心を育て、人々を幸福にするのだ……。

 でも、自由な経済における競争というのは、そんな陰鬱なものじゃない。自由な経済でいちばん儲けることができる人というのは、いちばん消費者に選ばれる人だ。消費者の幸せに貢献せず、欺き、蹴落とし、出し抜くだけの生産者は、利益も生み出さないから、いずれマーケットから退場せざるをえない。

 一方、自由な市場の代わりに政府が事業を行う場合はどうだろう。ここでは価値を決めるのは消費者ではなく、少数の政治家や官僚だ。官僚に気に入られなければ予算がつかず、事業は実行されない。消費者に選ばれる人じゃなく、官僚にうまく取り入る人が得をする。自分の利益のために欺き、蹴落とし、出し抜く世界はどちらだろうか? その世界の極限的な姿が、あの20世紀に崩壊した大国じゃなかったか? おまけに官僚は失敗しても退場しないから、消費者のことなんか考えない。考えたとしても、無数の消費者の望みなど知るすべもない。消費者の望みは、彼らが自由な市場で商品を購入し、あるいはしないことによってしか明らかにならない。

 また政府が正義や道徳心を育てる責務を担っており、その実行手段としての公共投資を持つべきだというのはどうだろう。正義や道徳が、自由と同じように大事だという意見に僕は同意しても構わない。しかし、それならなおのこと、そんなものを少数の政治家や官僚に任せるのはひどく危険なことじゃないだろうか。政府の偉い官僚とその仲間たちが決めた特定の文化や教育が、僕らから集めた税金で助成されるとき、僕らは僕ら自身が信じる文化や教育にそのお金を投じる機会を失っている。それは僕らの正義や道徳が奪われていることを意味しないか。

 文化も教育も、およそ人間の全ての活動は資源を必要とする。だから経済の自由が失われたところでは、表現の自由も、信仰の自由も、良心の自由も残ることができない。自由な経済が僕らの正義と道徳を支える。その逆ではない。