外国製品が雇用を奪う。そして僕らは豊かになる。

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トランプ氏はホワイトハウスが主催した米国製品の展示会で発言。全米50州の製造業者の幹部を前に「ここにいる全員に約束する。諸外国がルールを違反し、われわれの雇用や富を奪うことをこれ以上許さない」と強調。

 全く当然のことだけど、雇用と富は違う。それらは反対のものだ、と言ってしまってもいい。達成される生活水準が同じなら、労働は少ないほうがいいに決まっているからだ。逆を考えても明らかで、富を生み出さない無駄な仕事を増やせば、雇用は増える。それの何が嬉しいのだろう。

「外国製品の略奪的なネット販売は国内の消費者やショッピングセンターに壊滅的な被害をもたらしている。この取り締まりが含まれる」と表明した。

「ショッピングセンターや小売店舗、小売業者の雇用は非常に厳しい状況にある。かつてない数の閉鎖が起きている」と指摘した。

  雇用を守るために安価な外国製品を取り締まることは、同じ生活水準を維持するための労働を増やすことを意味している。それは米国民の雇用を増やすかもしれないが、生活の豊かさを増やしはしない。

 外国製品が雇用を奪ってくれるからこそ、労働に余裕が生まれ、国民は豊かになる。雇用を守るために外国製品を取り締まれば、まさにそのことによって国民の富は失われる。富を奪うのは外国製品ではなく、それを取り締まる政府だ。

太陽光、価格、投資

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価格は必要性を伝達するシグナルだ。より必要な商品の価格は相対的に上がり、より必要でない商品の価格は相対的に下がる。このシンプルなメカニズムが資源配分の複雑な交通を整理している。

 固定された価格は壊れた信号機のようなものだ。それはもはや必要性を反映しない。だからその価格に基づいて計算された投資は、必ず過大か過小になる。政府の設定した不自然な高価格がついに維持できなくなったとき、僕らは誤った目的のために限りある資源を蕩尽していたことを知る。

 誤った投資は清算される。企業は倒産し、解放された労働力と資本があるべき場所に向かって移動を始める。これは良いことだ。だが過去に蕩尽した資源は帰ってこない。

 僕らが太陽光発電施設の代わりに本当に作るべきものだったのは何なのか、それはもう誰にもわからない。それを教えてくれたはずの信号機を僕らは壊し、戻らない時間を間違った目的に費やしてしまったのだ。価格を統制された経済の末路はいつも悲惨だ。

自由経済は不道徳か?

gendai.ismedia.jp

 自由な経済はいつだって無理解に苦しんできた。曰く、自由な経済には正義や道徳がない。自分の利益のために欺き、蹴落とし、出し抜く世界だ。だから正義や道徳は政府が育まなきゃいけない。文化や教育への公共投資が、市場の見えざる手では掬えない正義や道徳心を育て、人々を幸福にするのだ……。

 でも、自由な経済における競争というのは、そんな陰鬱なものじゃない。自由な経済でいちばん儲けることができる人というのは、いちばん消費者に選ばれる人だ。消費者の幸せに貢献せず、欺き、蹴落とし、出し抜くだけの生産者は、利益も生み出さないから、いずれマーケットから退場せざるをえない。

 一方、自由な市場の代わりに政府が事業を行う場合はどうだろう。ここでは価値を決めるのは消費者ではなく、少数の政治家や官僚だ。官僚に気に入られなければ予算がつかず、事業は実行されない。消費者に選ばれる人じゃなく、官僚にうまく取り入る人が得をする。自分の利益のために欺き、蹴落とし、出し抜く世界はどちらだろうか? その世界の極限的な姿が、あの20世紀に崩壊した大国じゃなかったか? おまけに官僚は失敗しても退場しないから、消費者のことなんか考えない。考えたとしても、無数の消費者の望みなど知るすべもない。消費者の望みは、彼らが自由な市場で商品を購入し、あるいはしないことによってしか明らかにならない。

 また政府が正義や道徳心を育てる責務を担っており、その実行手段としての公共投資を持つべきだというのはどうだろう。正義や道徳が、自由と同じように大事だという意見に僕は同意しても構わない。しかし、それならなおのこと、そんなものを少数の政治家や官僚に任せるのはひどく危険なことじゃないだろうか。政府の偉い官僚とその仲間たちが決めた特定の文化や教育が、僕らから集めた税金で助成されるとき、僕らは僕ら自身が信じる文化や教育にそのお金を投じる機会を失っている。それは僕らの正義や道徳が奪われていることを意味しないか。

 文化も教育も、およそ人間の全ての活動は資源を必要とする。だから経済の自由が失われたところでは、表現の自由も、信仰の自由も、良心の自由も残ることができない。自由な経済が僕らの正義と道徳を支える。その逆ではない。

「内部留保」を廃止せよ

もちろん僕は、企業は内部留保を全て配当せよとか、従業員に配れとか、そんなばかげたことを言いたいんじゃない。僕が提案するのは内部留保という言葉の廃止だ。内部留保という言葉は酷く混乱しており、全く異なる次のいずれを指す場合にも使われている。

  1. 利益剰余金
  2. 現金預金
  3. 資金過不足

 ならば内部留保と言わず、はじめからこれらの言葉を使うのがいい。以下それぞれ解説する。

1.利益剰余金

 これが元々の意味の内部留保だ。会計をやっている人間は内部留保と聞けばまずこれをイメージする。

 企業の利益のうち一部は株主に配当され、配当されなかった残りが単年度の留保利益だ。これが毎年積み上がってBSの利益剰余金になる。つまり内部留保は、利益のうち配当として外部に流出しなかった部分だからそう呼ばれるわけだ。

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 これが単年度の留保利益だ。留保額一定という配当戦略を取る企業はまずないので、当然だけど単年度の留保利益は純利益とほぼ同じ動き方をする。内部留保が少ないのがどういうときかといえばバブル崩壊後やリーマンショックなどの不況時だ。内部留保が多いのを悪いことかのように語るのがいかにナンセンスかわかるだろう。

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 単年度の留保利益が積み上がることでストックとしての利益剰余金になる。ストックの数値なので、当然ながら経済規模の拡大とともに増加していく。利益剰余金が過去最高で経済が停滞などという記事を先日ロイターが出していたけど、ナンセンスというしかない。 基本的に赤字でなければ利益剰余金は増えていくに決まっている。

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 ストックの数字なら、企業規模との比で見た方がいいという向きもあるかもしれない。そこで利益剰余金と資産合計の比をとるとこうなる。確かにここ十数年で増えており、ファイナンスの手段として相対的に内部留保を重視するようになったとはいえるかもしれない。ただ2000年頃からの動きはそれ以前に比べてかなり異質で、企業の実態が変わったというより時価会計導入による見かけの影響が紛れているんじゃないかと思っている。

2.現金預金

 内部留保という言葉が現金預金を指して使われるのは、たぶん留保利益がキャッシュとして存在するという誤解から始まっている。配当を留保しているということを考えれば明らかだけど、元々の意味の内部留保エクイティファイナンスの一種なので、企業が具体的な資産として何を持っているかということは関係がない。多額の内部留保を持つキャッシュレス企業というのは普通に考え得る。

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 さて、現金預金だけど、80年代の終わりから減少か横ばいに近い動きをしている。最近になってまた増えてきたところだ。そうすると、企業が現金預金を貯めているから不況なんだ、という俗説はかなり怪しい。

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 現金預金もストックの残高だから、企業経済の規模が拡大すれば普通は増える。なので現金預金とBSの資産合計の比率を見るべきかもしれない。するとこの通りで、いわゆる「失われた20年」の現金預金はむしろ少ない方だ。だいたい企業だって余剰資金があれば遊ばせておきたいわけがなく、せっせと運用するか自己株買いで株主に返すに決まっている。

3.資金過不足

 資金過不足というのは資金循環統計の項目で、金融資産フローと金融負債フローの差額をいう。簡単に言うと、これがプラスならその年は借りた金額より貸した金額が多いことになる。マイナスならその逆。

 これは重要な統計だけど、これをもとに内部留保が増えた減ったと言われてしまうと、ちょっと待ってくれと言いたくなる。というのは資金循環統計の作りからして、元々の意味での内部留保(利益剰余金)が増えた場合に資金過不足がどう動くかは、BSの資産サイドの動きに掛かっているからだ。

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 さて、企業の資金過不足に関しては、確かに日本経済の病理が顔を覗かせているように思える。というのは、企業は普通、経済全体でみると家計から資金を調達して設備投資を行うので、その資金過不足はマイナスになるはずだ。ところが日本企業の場合、90年代半ばからは貸した金額の方が多いことになっている。どこに貸したことになるかというと、政府だ。この意味はもっと深く考える必要がある。

企業の社会貢献だって?

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企業には本業とは別に果たすべき社会貢献がある、という考えは、市場経済に対する大きな誤解に基づいている。

 市場経済が存在しない、小さな、原始的な村を考えよう。この村には商品を売買する市場がなく、貨幣がなく、価格もない。その代わりこの村では村長が各メンバーに、米作り担当、木こり担当、道路整備担当、草鞋作り担当……という役職を割り振っている。

 この村では、社会に対して自分の責任を果たすこととは、自分が担当している役職を全うすることだろう。たとえば米作り担当であれば、稲を育てて収穫し、おいしいお米を他の村人に配ることが、すなわち村の社会に貢献することそのものだ。

 次に、この村に市場経済の仕組みが導入された。人々は今や、自分の生産した商品を村の市場で売却することで生計を立てる。かつて米作り担当だった者は米農家になり、道路整備担当は土建会社となった。

 さて、米作り担当が米農家という個人事業主になったからといって、彼は突然、米を作っているだけでは社会貢献をしていないことになるだろうか。道路整備担当が土建会社になったからとって、彼の果たすべき社会的責任は、道路を整備することのほかに増えるだろうか。彼らは市場に米や道路整備サービスを供給することで、今まで通り社会的責任を果たしているはずだ。

 要するに市場経済は社会的分業を達成するための仕組みの一種で、市場に参加すること自体が社会貢献に直結している。企業は自分の利益を追求しているだけじゃないか、だって? その通りだ。米農家は自分の儲けのために米を売る。他の人々が買いたいと思えるお米を作ったときだけ、彼は儲けることができる。ここに矛盾はない。*1

 トヨタは素晴らしく社会に貢献している企業だ。でもそれは、トヨタが地球環境や災害地支援のために多額の支出をしているからってわけじゃない。高品質な車をリーズナブルな価格で市場に提供し続けている、その一点だけを以ても、トヨタの社会貢献は計り知れない。*2

*1:企業の私的利益の追求と社会的利益の追求がここでは一致している。この点が市場経済を他の仕組みに比べて効率的ならしめている。

*2:といって、企業がいわゆるCSR活動を行うことを僕は否定しない。株主が納得しているなら利益の浪費は自由だし、また広告宣伝の効果を期待できることもあるだろうからだ。ただし自発的に行われる限りの話で、もし企業がこのような活動を強制されるなら、僕らの社会は資源配分の歪みによって代償を支払うことになる。

せどりはなぜ正義なのか

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どういうわけだか、せどりは嫌われ者らしい。モノを右から左に移すだけなんて虚業ということだろうか。

 ある本が市場Aでは2000円で取引されていて、市場Bでは同じ本が500円で取引されている。まず考えなきゃならないのは、なぜこのような価格差が存在するのか、ということだ。

 消費者が両方の市場での価格を知っているなら、当然、市場Bで本を買う。*1需要が集中する結果として、市場Aでの価格は低下し、市場Bでは上昇する。この過程は、2つの市場の価格が等しくなるまで続く。

 価格差が生じるのは、市場Aの消費者は、自分の欲しい本が市場Bではより容易に手に入ることを知らないからだ。価格差に気づいたせどり屋は利ざやを得るために市場Bで本を仕入れ、市場Aで販売する。せどり屋のこのような行動によって本が市場Bから市場Aに移動し、2つの市場の価格差は縮まっていく。

 このとき、取引に関わったすべての人々が得をしていることに気をつけて欲しい。市場Bの販売者は売りたい価格で本が売れたし、市場Aの消費者は買いたい価格で本が買えた。そしてこのように、売り手も買い手も納得して取引が成立したときにのみ、せどり屋は利ざやを稼ぐことができる。

 市場Bで安く買えたはずの本を、市場Aの消費者は高く掴まされてしまったじゃないか、などとは言わないで欲しい。市場Bでの方が安く買えるという事実を、消費者は知らなかったからだ。せどり屋が市場Bから市場Aに本を移動させなければ、市場Aではずっと品薄が続き、消費者は高い価格で本を買い続けることになる。せどり屋はただ利ざやが欲しかっただけなのだが、消費者の知らない自らの知識を、結果として消費者のために役立てている。

 市場とはこのように、偏在している知識を価格の中に織り込んでいくことで、効率的な資源配分を達成する機構のことだ。この機構を駆動する主役は、価格の発するシグナルをキャッチし、自らの知識を発揮する企業家にほかならない。

安く仕入れて高く売る。商売の基本です

  だから、冒頭の記事におけるこの発言は企業家の鑑といわなきゃいけない。せどり屋は僕らの市場経済を機能させるために欠かせない正義の人々だ。

*1:消費者にとって、市場にアクセスするためのコストは市場A, Bで等しいとしよう。この仮定を外した場合、せどり屋を正当化するのはもっと簡単だ。せどり屋は単に輸送等のサービスを提供していると考えられるからだ。

お金の回転 花見酒の経済

note.mu

コップ10杯分のお酒がある。はじめAがBに千円札を渡して一杯飲む。その同じ千円札をBがAに渡して一杯飲む。取引されたお金の総額は千円×10=10千円だ。

 では、コップ半杯ごとに千円札を渡した場合は? 千円×20=20千円だ。別のケースとして、千円札ではなく1万円札を渡した場合はどうだろう? 1万円×10=10万円だ。

 上にリンクを張った漫画の結論の妥当性はここでは論じない。ただ僕が今日言いたいのは、お金が回るのが良いというのは、決して自明ではないということだ。貨幣の流通速度が上昇した場合も、貨幣の額面が増えた場合も、いずれも回るお金の総額は増える。でも花見酒の経済は、彼らが飲むことのできるお酒の量が増えるとき、そのときにだけ豊かになる。

 だから、お金が回れば経済が良くなるという話からは、控えめに言っても大事な議論が省略されてしまっている。取引されるお金が増える結果として、僕らの消費できる財やサービスがどのように増えるのか、あるいは増えないのか? そこを議論しなければ僕らの言葉はレトリックになり、経済学の繊細なロジックのすべては失われてしまう。