価値があるだけでは足りない

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人生の様々な苦難に対し、文学は考える手がかりを与えてくれる。だから文学には素晴らしい価値があるのだと、記事の学長は説く。

 僕もそう思う。でも文学の価値をいくら称揚しても、記事の冒頭の問い「文学部から税金を引き上げるべきではないか」に対する反論にはならない。

 というのは、文学がそれを学ぶ者にそれほど素晴らしい価値をもたらすなら、なおのこと、学生が自分で学費を出せばいいからだ。ビジネスマンがカルチャースクールに通ったり、主婦が習い事をするのと同じことだ。あるいは、文学の素晴らしさに共鳴する人たちに寄付を募ってもいい。

 価値がありさえすれば税金を投下していいなら、政治も経済学も無用になる。予算の制約を無視していいなら、あれもこれも、僕らの周りの価値あるものすべてに税金を注ぎ込んでしまえばいい。

 しかし、僕らの政府の予算は限られている。それは、究極的には、いかなる経済活動も物理的な資源に制約されていることに由来する。文学部を維持するとき、そこで働く優れた知性を持つ人々が他の機会にそれを役立てていた可能性を、大学の土地が他の方法で活用されていた可能性を、学生が他の挑戦に身を投じていた可能性を、僕らの社会は犠牲にしている。*1

 選択は常に、あれか、これか、という形でなされる。文学部に価値があるとしても、そこに資源を投じるのなら、その価値は資源を投じられなかった他の機会の価値を上回っていなければならない。その判断が、お金を出す学生や寄付者の自由な判断で行われるなら構わない。でも人の財布に手を突っ込もうというのなら、価値があるだけでは足りない。*2

*1:この意味で教育無償化というのはありえない。負担は常に生じる。

*2:いうまでもなく、文学部に限らず、他の文系学部や理系学部もこの批判を免れない。

自己株式はなぜ存在しないのか

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自己株式の取得(上の記事でいう自社株買い)の意味を理解したいなら、新株発行の逆を考えればいい。

 新株発行は企業という法人格が、利益の配当を受ける権利(=株式)を株主に渡すことと引き換えに、株主から資金の拠出を受けることだ。株主から拠出された資金額は資本とよばれる。

 一方、自己株式の取得は株式を株主から受け取ることと引き換えに、株主に資金を支払うことだ。新株発行とちょうど逆のことが起きているのが分かるだろう。要するに自己株式の取得は、株主から拠出された資本の払い戻しを意味している。

 上の記事を解説するならこういうことだ。企業は株主から拠出された資金を株主のために運用する責任を負っている。有望な投資案件がないときには、企業は自分の手に余る資金を株主に返すために自己株式を買う。株主を納得させられる投資案件が増えれば、投資から得られる利益を配当した方がいいので、自己株式の取得は減る。

 自己株式は企業会計上、資産ではなく株主資本のマイナスとして処理される。ここまでの話が分かれば、この処理の意味も当然に理解されるはずだ。企業が自分で自分に配当したところで*1会社財産に変動はない。自己株式は企業自身にとって価値がなく、取得の際に払い戻した金額だけ株主資本を減らすことになる。

 だから、実は自己株式というのは単に制度の存在で、経済的実態としては存在しないといえる。取得した企業自身にとっては価値がないから、自己株式は取得した瞬間に消滅する。*2そして自己株式が売却される場合には、それは新たに資金の拠出を受けるということだから、存在している株式が売りに出されるというより、新株が発行されていることになる。

*1:もっとも会社法の規定によって自己株式には配当を受ける権利がないが。

*2:もちろん企業が自己株式の償却を決定するまでは法的にも財務諸表上も「自己株式」は残るけど、償却を決定する前後で会社財産の実態は何も変わらない。

雇用調整、正社員、過労死:僕らの労働市場を病的にしてきた仕組みについて

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欧米の企業は従業員の数を増減させることで仕事の増減に対応する。一方、日本の企業は従業員一人当たりの仕事時間を増減させることで仕事の増減に対応する。

 日本流の時間調整は正社員の雇用を守る仕組みとして機能してきた。不況でもクビを切らない。好況でも従業員を増やさない。この仕組みから排除された非正社員は自殺し、正社員は一人で膨大な仕事を抱え込んで過労死する。

 さて、僕らの社会は今、このような過労死を防ぐための工夫を探している。でもその答えを、長時間労働の規制や企業内での働き方の変化に求めることは、もとより無謀な試みだ。長時間労働は正社員の雇用を保護するための必然だったからだ。

 労働時間を縮減するには、雇用調整が従業員一人当たりの仕事量ではなく、従業員の人数の調整によってなされることが可能でなければいけない。そのためには労働契約法をはじめとする解雇規制を打ち破る必要がある。それは労働身分差別と過労死を生み出してきた正社員という仕組みを解体する作業にほかならない。

高等教育は投資だ、ゆえに無償化してはいけない

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「次の世代にツケを残すとの批判もあるが、誰でも専修学校や大学に行ける仕組みを作れば、将来収入を得て、税収が上がり、新たな富をつくっていくことにつながる。それは将来にツケを残すことにはならないとの議論もある」

高等教育は将来の収入増をもたらすから、将来の負担にならない……。このロジックを採用するなら、 高等教育の無償化自体が無用だといわなければいけない。

 高等教育は、技能や知識などの人的資本を形成するための投資だといえる。その人的資本は、高等教育を受ける本人に収入の増加をもたらす。このとき、投資費用は高等教育を受ける本人に支出させるのが最適となる。なぜなら本人は将来の収入増が期待できる限り投資額を増やし、そうでなければ投資額を減らすので、投資のリターンが最大になるところで投資水準が決まるからだ。*1

 これはトヨタが自動車工場を建てるのと同じ話だ。トヨタが自動車工場を建設することで、トヨタの収益が増加する。その費用は当然トヨタが負担すべきといえる。仮に税や国債で負担すれば、負担が転嫁できることでトヨタは過大な投資を行うだろうし、また補助されなかった他の支出とのあいだで公平を欠くからだ。

首相は教育国債について「資産を次の世代に残せば、それは会社が投資するようなものだ」と説明した。

  僕は首相のこの言葉には全く同意できる。トヨタが自動車工場を建てるのと、人々が高等教育を受けるのとでは、有形の資産が残るか、人的資本という無形の資産が残るかという違いがあるに過ぎない。だからこそ、この理由で高等教育の無償化を正当化することはできない。*2

*1:また投資の効率ではなく貧富の格差を問題にするなら、教育無償化などと使途を制限せずに、所得を直接移転すべきだ。

*2:他のロジックによって高等教育無償化が正当化できる可能性まではここでは否定しない。ただ少なくとも、将来の収入増になるから、などという単純な理由で正当化できるものではないことは知っておいてもらいたい。

政府は景気に責任を負うべきか?

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政府は景気を良くすべきものだ、と考えられている。だから景気が良くなれば内閣の支持率は上がるし、悪くなれば下がる。

 政府が景気を良くすべきだ、という立場からの政策は総需要管理政策と呼ばれる。それはざっくり説明すると次のようなものだ。

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 図の青線は実際のGDP*1で、赤線はある種の移動平均によって計算されたトレンドとしてのGDPだ。景気が落ち込んでいる状態というのは青線が赤線の下にあるときで、加熱している状態というのは青線が赤線の上にあるときだと考えられる。

 景気が落ち込んでいるときは減税や利下げで浮揚させ、景気が加熱しているときは増税や利上げで抑え込む。そうやって青線を赤線に近づけていけば、景気の上下動を押さえ込み、トレンドとしての安定的な成長が達成できる……これが総需要管理政策の発想で、先進国の経済政策は程度の差はあれ、この発想で運営されている。

 しかし、このような発想を苛烈に批判した経済学者も存在する。シュンペーターはトレンドとしてのGDPなど存在しないと考えていた。彼の考えでは、トレンドなどというものは、経済学者が実際のGDPに加工処理を施したときにだけ現れる幻想にすぎない。

 彼の考えを、僕なりに現代的な形で解釈すれば次のようになる。潜在GDPなどと呼ばれ景気安定化の目標とされるトレンドとしてのGDPは、理論はどうあれ、実際のGDP移動平均として計算される。*2それは効率的な資源配分を実現する理論上の均衡GDPとは異なる。

 潜在GDP移動平均として求められる以上、均衡GDP自体の変動が実際のGDPの変動を引き起こしているとき、僕らはそれを必然的に、トレンドからの乖離として誤って認識することになる。*3そのとき発動される総需要管理政策は、僕らの経済をあるべき均衡から乖離させ、経済厚生を引き下げてしまう。*4

 仮にシュンペーターが正しかったのなら*5、景気を安定化させようという僕らの試みは無用であるか、むしろ僕らの経済に対して余計なことをしでかしていることになる。景気が良くなれば内閣を支持し、悪くなれば支持しなくなる僕らは、天候による不作を指導者のせいにしていた古代の人々を笑うことができないかもしれない。

*1:四半期実質季節調整系列

*2:もちろん内閣府や日銀が使用している潜在GDPは単なる移動平均そのままではないが、いずれにしても過去のデータを平滑化しているにすぎない。

*3:長期にわたって景気低迷が続くような場合には、逆に、景気低迷をトレンド自体の低下と誤認することになる。

*4:またここでは論じないが、仮に実際のGDPの変動が実際に均衡GDPからの乖離だったとして、それに対して即座に政策を発動すべきかは別の問題だ。

*5:なおシュンペーター自身は、ここで僕が述べているよりももっと強烈なことを考えていたと思われる。

雇用をセーフティーネットにしてはいけない

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使用者側が『これだけ払えば解雇できる』という目安ができてしまうと、労働者の雇用もお金でコントロールされかねない」と懸念を示した。

企業は公器であって、儲かる儲からないといった都合で労働者を解雇すべきじゃない、という考え方は根強い。これは労働者の生活を保障するセーフティーネットの機能を、雇用という形で企業に負わせる考え方だ。

 けれど、消費者の需要は刻一刻と変わるし、企業を取り巻く環境も一定じゃない。消費者の期待に応えられない企業は利益を上げられず、事業を縮小せざるをえない。その際に解雇された労働者が市場に放出されることで、より人手を必要とする成長産業のための人材が供給される。

 経済の効率性はこのような動的なプロセスによって保たれる。強力な解雇規制は、企業や産業がより効率的な構造となるための動きを塞き止めてしまう。それは僕らの経済が生み出す価値を減らし、その災厄は貧しい労働者たちにこそ強く降りかかるだろう。

 セーフティーネットがもし必要ならば政府が労働者の所得を直接補償すべきで、企業にその役割を負わせるべきじゃない。農民の雇用が奪われるからといってエンクロージャーを禁止すれば、産業革命は起こらなかったかもしれない。

「内需依存」の危うさ

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戦後の日本は貿易立国でも何でもなく、むしろ一貫して内需依存型です。

 だから貿易によって日本が豊かになったというのは誤りで、貿易を政策的に制限しても経済に悪い影響はない、と上の記事の評論家は言いたいみたいだ。

 日本が内需主導で成長した、というのは全くの間違いじゃない。けれど、だから貿易を制限しても構わない、というのは本当だろうか。

 X国は砂漠の国で、もっぱら石油を生産している。X国のある年の石油の生産金額は100億ドルだ。X国はこれを全て輸出し100億ドルを手に入れる。そしてその100億ドル全てを外国に支払って食べ物、衣服などを輸入し、消費する。

 X国のGDP統計は次のようになる。

  • X国のGDPは消費+輸出ー輸入=100億ドル
  • X国の内需は消費=100億ドル
  • X国の外需は輸出ー輸入=0億ドル

 GDPの支出面で考える限り、X国の経済は100%内需依存型ということになる。だからといってX国が鎖国するなら、X国の経済に破滅的なダメージがもたらされることは疑いない。

 外需がGDPに寄与しなければ貿易する意味がない、という見解は、貿易の目的は純輸出(貿易黒字)の拡大にある、という誤った思想に基づいている。貿易の本当の目的は外国と商品を交換することにある。石油と食べ物を交換すること自体がX国に豊かな生活をもたらすのであり、その結果として収支が黒字である必要はない。

 交換が赤字も黒字もなくトントンの収支で終われば、統計の見かけ上、僕らの経済は「内需依存型」になる。それを見て貿易は無意味だと解釈する誤りを犯せば、僕らの経済は江戸時代に戻っていってしまうだろう。