独占に対する規制はなぜ有害なのか

gigazine.net

アメリカの民主党は政府当局に対し、Amazonとホールフーズの合併により、特に他の商店や商品の購買方法に選択肢がないケースにおいて、消費者の選択が限定されることがないか調査を求めました。これは、合併による企業の独占が強まってしまうことを懸念したもので、消費者の不利益が生じることを危惧しての動きです。

 企業にも最適な規模というものがある。合併にメリットがある限り企業は自ら合併するし、巨大な規模を維持することが非効率になれば放っておいても分裂する。だから、この企業は大きすぎるから分割しろとか、小さすぎるから合併しろとか規制当局が口を出すのは益のないことだ。

 市場を制覇した企業は不当に価格を釣り上げて、消費者から搾取するんじゃないか、という疑問があるかもしれない。いわゆる独占の問題だ。でも実のところ、経済学の入門書に出てくるような独占の問題は、自由な市場では見られないものだ。

 というのは、多くの入門書で見るような独占のモデルは新規参入が存在しない状況を仮定している。しかし現実には、独占企業が価格を釣り上げれば、もっと安く商品を供給するライバル企業の新規参入を招くことになる。

 だから独占の問題というのは、新規参入が政府によって規制されていたり、新規参入に莫大な初期投資が必要なインフラ産業であったりしないと起こりえない。Amazonが無謀な値上げに踏み切れば僕らは楽天を使うだけのことだ。

 それに企業の競争というのは、入門書のモデルのように販売数量や価格を操作するだけものものではない。実際に起こっているのはイノベーションの競争だ。AmazonはPrime NowやDash Buttonといった新しい概念を生み出し、また配送ロボットやドローンなどの新しい技術を導入することで自らを強化してきた。

 そもそもAmazonが始まった当時、インターネット販売という業態はそれ自体が革新的な発明だった。それはいまや実店舗をもつ巨大小売りチェーンを脅かしている。インターネットが現れる以前には想像できなかったことだろう。競争とはこのようにダイナミックなものであり、規模の面で市場を制覇したからといって胡座をかき続けることはできない。

 自由な市場においてただ1つの企業が覇者として君臨しているなら、それは単にその企業が圧倒的に消費者に選ばれていることを示している。政府がそれを規制すれば、僕ら消費者は豊かで便利な生活を奪われることになる。

なぜ政府が資格取得を補助してはいけないのか

itpro.nikkeibp.co.jp

IT関連の資格取得講座を受講する場合、2017年10月以降、費用の補助を受けられるケースが増える。「教育訓練給付制度」の「専門実践教育訓練」対象講座の指定要件が緩和されるからだ。これによって、指定講座が拡大すると見込まれる。

 たとい素晴らしい投資案件であっても、見境なく規模を拡大すれば採算割れを免れない。どんな投資案件にも、それ以上規模を拡大すべきではない適切な投資水準というものがある。

 資格を取得することは、技能やその証明という無形資産への投資だといえる。*1どんな投資にも言えることだけど、それは追加的な投資のリターンがコストを上回っている限りにおいてのみ価値を生みだす。

 自らの負担で資格の取得を目指す場合、追加的な投資のリターンがコストを下回るなら、彼はそれ以上の投資を行わない。けれど政府が資格取得を補助する場合、自己負担が小さくなるために、彼は補助金がなかったなら目指さなかったはずの資格までをも取得する。

 これはまさにこの政策の目的であり、これによって彼の個人的な給料は増加するかもしれない。しかしその裏では、補助金の原資である税金や社会保険を通して、投資コストの一部が他の人々に押し付けられている。

 コストの押し付けができることで、資格への投資は必然的に適切な投資水準を超えて過大になる。そのとき僕らの社会は全体として、追加的なリターンを上回るコストを負担する。だから資格取得に対する補助金は、それがなかった場合よりも、僕らの経済社会を必ず貧しくしてしまう。

*1:独占資格の場合には別の問題がある。これはいずれ論じるだろう。

混雑、価格、公平性

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京都市がバスの混雑を解決するために一日乗車券の値上げを決めたそうだ。同じように高速道路の渋滞や満員電車を解決するのは難しくない。混雑している時間帯の利用料金をそれが解消するまで上げればいい。*1

 時間によって利用料金が変わるのは不公平だ、と思う向きもあるかもしれない。貧乏人は朝の電車に乗るなということか、と。時と場所によって同じ商品に異なる値段が付くことは、人間の直感的な正義に反するところがあるようだ。災害地で食料の価格が高騰するときなども、販売者は激しい非難を浴びることがある。

 けれど高価格は品薄の結果であって原因ではない。災害地での値上げを禁止しても食料が足りていないという事実は変わらない。朝の電車の利用料金を上げなければ、満員電車は、それに並び、耐える余裕のある人々だけのものになる。それは貧しい人々を助けるかもしれないが、満員電車に耐えられない体の弱い人々を締め出してしまう。貧富の公平性のために価格を硬直的に規制するとき、僕らは別の公平性を犠牲にしている。

 価格が伸縮的に動くところでは品不足は解消する方に向かう。災害地で食料の価格が高騰すれば、機を見るに敏な商人たちは他の地域からそれを運んでくるだろう。電車のようなインフラではこのようなメカニズムは成り立たないと思われるかもしれないが、電車は自家用車、バス、タクシー、自転車、職場の近くに住むという選択肢、さらにはまだ見ぬ革新的な技術やアイデア*2との競争に常に晒されている。公共セクターが満員電車の利用料金を不自然に低く維持することは、これらの民業を圧迫し、輸送手段の品不足を解決から遠ざけることになる。

 どうしても貧しい人々のにとっての輸送手段を確保する必要があれば、単に所得を移転するか、交通バウチャー*3を配布することによって対応できる。価格の伸縮性を損なえば、民間に分散する知識の活用と希少な資源の配分という市場の主要な機能は死んでしまう。

*1:これはピークロードプライシングと呼ばれている。

*2:近年ではUberがその一つだっただろう。

*3:とはいえ、バウチャーは使途が限定されるために、政策決定者が予想しない革新的なアイデアの発展を阻害する恐れはある。

価値があるだけでは足りない

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人生の様々な苦難に対し、文学は考える手がかりを与えてくれる。だから文学には素晴らしい価値があるのだと、記事の学長は説く。

 僕もそう思う。でも文学の価値をいくら称揚しても、記事の冒頭の問い「文学部から税金を引き上げるべきではないか」に対する反論にはならない。

 というのは、文学がそれを学ぶ者にそれほど素晴らしい価値をもたらすなら、なおのこと、学生が自分で学費を出せばいいからだ。ビジネスマンがカルチャースクールに通ったり、主婦が習い事をするのと同じことだ。あるいは、文学の素晴らしさに共鳴する人たちに寄付を募ってもいい。

 価値がありさえすれば税金を投下していいなら、政治も経済学も無用になる。予算の制約を無視していいなら、あれもこれも、僕らの周りの価値あるものすべてに税金を注ぎ込んでしまえばいい。

 しかし、僕らの政府の予算は限られている。それは、究極的には、いかなる経済活動も物理的な資源に制約されていることに由来する。文学部を維持するとき、そこで働く優れた知性を持つ人々が他の機会にそれを役立てていた可能性を、大学の土地が他の方法で活用されていた可能性を、学生が他の挑戦に身を投じていた可能性を、僕らの社会は犠牲にしている。*1

 選択は常に、あれか、これか、という形でなされる。文学部に価値があるとしても、そこに資源を投じるのなら、その価値は資源を投じられなかった他の機会の価値を上回っていなければならない。その判断が、お金を出す学生や寄付者の自由な判断で行われるなら構わない。でも人の財布に手を突っ込もうというのなら、価値があるだけでは足りない。*2

*1:この意味で教育無償化というのはありえない。負担は常に生じる。

*2:いうまでもなく、文学部に限らず、他の文系学部や理系学部もこの批判を免れない。

自己株式はなぜ存在しないのか

www.nikkei.com

自己株式の取得(上の記事でいう自社株買い)の意味を理解したいなら、新株発行の逆を考えればいい。

 新株発行は企業という法人格が、利益の配当を受ける権利(=株式)を株主に渡すことと引き換えに、株主から資金の拠出を受けることだ。株主から拠出された資金額は資本とよばれる。

 一方、自己株式の取得は株式を株主から受け取ることと引き換えに、株主に資金を支払うことだ。新株発行とちょうど逆のことが起きているのが分かるだろう。要するに自己株式の取得は、株主から拠出された資本の払い戻しを意味している。

 上の記事を解説するならこういうことだ。企業は株主から拠出された資金を株主のために運用する責任を負っている。有望な投資案件がないときには、企業は自分の手に余る資金を株主に返すために自己株式を買う。株主を納得させられる投資案件が増えれば、投資から得られる利益を配当した方がいいので、自己株式の取得は減る。

 自己株式は企業会計上、資産ではなく株主資本のマイナスとして処理される。ここまでの話が分かれば、この処理の意味も当然に理解されるはずだ。企業が自分で自分に配当したところで*1会社財産に変動はない。自己株式は企業自身にとって価値がなく、取得の際に払い戻した金額だけ株主資本を減らすことになる。

 だから、実は自己株式というのは単に制度の存在で、経済的実態としては存在しないといえる。取得した企業自身にとっては価値がないから、自己株式は取得した瞬間に消滅する。*2そして自己株式が売却される場合には、それは新たに資金の拠出を受けるということだから、存在している株式が売りに出されるというより、新株が発行されていることになる。

*1:もっとも会社法の規定によって自己株式には配当を受ける権利がないが。

*2:もちろん企業が自己株式の償却を決定するまでは法的にも財務諸表上も「自己株式」は残るけど、償却を決定する前後で会社財産の実態は何も変わらない。

雇用調整、正社員、過労死:僕らの労働市場を病的にしてきた仕組みについて

headlines.yahoo.co.jp

欧米の企業は従業員の数を増減させることで仕事の増減に対応する。一方、日本の企業は従業員一人当たりの仕事時間を増減させることで仕事の増減に対応する。

 日本流の時間調整は正社員の雇用を守る仕組みとして機能してきた。不況でもクビを切らない。好況でも従業員を増やさない。この仕組みから排除された非正社員は自殺し、正社員は一人で膨大な仕事を抱え込んで過労死する。

 さて、僕らの社会は今、このような過労死を防ぐための工夫を探している。でもその答えを、長時間労働の規制や企業内での働き方の変化に求めることは、もとより無謀な試みだ。長時間労働は正社員の雇用を保護するための必然だったからだ。

 労働時間を縮減するには、雇用調整が従業員一人当たりの仕事量ではなく、従業員の人数の調整によってなされることが可能でなければいけない。そのためには労働契約法をはじめとする解雇規制を打ち破る必要がある。それは労働身分差別と過労死を生み出してきた正社員という仕組みを解体する作業にほかならない。

高等教育は投資だ、ゆえに無償化してはいけない

www.nikkei.com

「次の世代にツケを残すとの批判もあるが、誰でも専修学校や大学に行ける仕組みを作れば、将来収入を得て、税収が上がり、新たな富をつくっていくことにつながる。それは将来にツケを残すことにはならないとの議論もある」

高等教育は将来の収入増をもたらすから、将来の負担にならない……。このロジックを採用するなら、 高等教育の無償化自体が無用だといわなければいけない。

 高等教育は、技能や知識などの人的資本を形成するための投資だといえる。その人的資本は、高等教育を受ける本人に収入の増加をもたらす。このとき、投資費用は高等教育を受ける本人に支出させるのが最適となる。なぜなら本人は将来の収入増が期待できる限り投資額を増やし、そうでなければ投資額を減らすので、投資のリターンが最大になるところで投資水準が決まるからだ。*1

 これはトヨタが自動車工場を建てるのと同じ話だ。トヨタが自動車工場を建設することで、トヨタの収益が増加する。その費用は当然トヨタが負担すべきといえる。仮に税や国債で負担すれば、負担が転嫁できることでトヨタは過大な投資を行うだろうし、また補助されなかった他の支出とのあいだで公平を欠くからだ。

首相は教育国債について「資産を次の世代に残せば、それは会社が投資するようなものだ」と説明した。

  僕は首相のこの言葉には全く同意できる。トヨタが自動車工場を建てるのと、人々が高等教育を受けるのとでは、有形の資産が残るか、人的資本という無形の資産が残るかという違いがあるに過ぎない。だからこそ、この理由で高等教育の無償化を正当化することはできない。*2

*1:また投資の効率ではなく貧富の格差を問題にするなら、教育無償化などと使途を制限せずに、所得を直接移転すべきだ。

*2:他のロジックによって高等教育無償化が正当化できる可能性まではここでは否定しない。ただ少なくとも、将来の収入増になるから、などという単純な理由で正当化できるものではないことは知っておいてもらいたい。