”債務負担についての誤謬”(1/3)

今回から3回にわたって、ブキャナン(1986年ノーベル経済学賞受賞)とワグナーによって1967年に著された"Public Debt in a Democratic Society"から、"The Fallacies of Debt Burden"と題された議論を紹介する。第1回となる今回は、「負担とは現在の資源の減少であるから、公債の負担が将来に転嫁されることはない」という見解(リアル・コスト説)が検討される箇所である。以下翻訳。

 

債務負担についての誤謬

 上記のシンプルな原理*1を受け入れることに対してなお拒否する経済学者さえいなければ、「公債の負担」についてこれ以上議論すべきこともなかっただろう。この拒否反応は絡み合った一連の誤謬に基づいており、批判的かつ慎重な検討を要する。これらの誤謬を打ち捨てることは重要である。分析家の間で意見の一致が生じつつあるにもかかわらず、これらの誤謬は今なお経済学の初級教科書の多くに見つけることができる。それだけに、債務負担のシンプルな分析を否定する意見の説得力に注意が払われるべきである。

 いくつかの誤謬が組み合わさることで3つの関連した結論が生み出されているが、それぞれが単に間違っている。間違った結論とは次のようなものである。

(1)公債の負担が時間的に(訳注:将来世代などに)先送りされることはない。

(2)内国債の影響は外国債と根本的に異なる。

(3)内国債を私的な債務(訳注:家計や企業の借金)に喩えることはできない。

これらの誤った記述をすべて含んだ教科書も存在する。その背後にある分析には、実際、説得力がある。その議論は凝ったものであり、誤謬が捉えにくくなっている。

 

リアル・コストの誤謬

 コミュニティ全体にとってのコストないし負担を先送りすることは不可能であるという議論が、18世紀からさまざまになされてきた。この見解では、経済的資源の物理的な使用に力点が置かれる。公債は歴史的には戦費の支出に関連しており、他ならぬこの議論は、負債によってファイナンスされた戦争経費の負担に着目してきた。銃を作るための鉄など、軍事装備に転換される資源は、銃が生産された期間においての経済それ自体から持ち出されたものでしかありえない、とこの議論は述べる。この観点からするとコストの先送りは不可能である。戦費支出のリアル(実物的)なコストは、銃を生産するために諦めなければならないバターのような、民間の財の現在の減少に代表される。戦費支出のリアルなコスト、つまり負担は、実際のファイナンスの手段が課税であれ、通貨インフレであれ、債務の発行であれ、必然的に現在のものである。

 一見したところでは、この議論には実際に説得力があり、そこに含まれる誤謬は容易には認められない。関心が集計的な影響に限定されている限り、この議論に間違いはないように見える。国民会計(National Accounting = 国民経済計算)の用語で言えば、公的支出の増加は公的部門ないし政府による資源の使用の増加を意味し、民間の支出と民間による資源の使用は減少する。この変化は公的支出のファイナンス手段に関わらず生じる。債務と課税とは公的な財のコストを配分するための代替可能な手段であり、これら2つの手段の間で、コストの負担先に関する時間的な違いは無いとされる。

 ここにある誤謬を捉えるには、先に強調した定義的手段的な問いに立ち返らなければならない。もし公債が、全体としては、公的な財の機会コストを先送りしないのであれば、誰がそれらのコストを払っているのか? もしこれらのコストが、資源が使用された期間において生じなければならないとすれば、コミュニティ内のどの個人やグループが、公的な財と交換に私的な財を諦めているのか?

 銃を製造するための資源はどこからやってくるのか? この議論(訳注:リアル・コスト論)によると、政府の証券を購入する人々、つまり公債証書を購入する人々が公的な財のコストを負っていることになる。しかし本当か? これらの人々は、債務の創出と公的な支出が行われる期間において、私的な財に対する支配を放棄している。このことは疑う余地がない。その意味において、これらの人々はコストを負っており、負担を背負っている。だが何の目的で? 彼らは私的な財を犠牲にするのと交換に、何を確保しているのか? この問いは、リアル・コスト論の推進者からは発せられなかったものだ。

 ひとたびこの問いが立てられれば、この議論の弱点が明らかになる。公債証書を購入した個人は、公債証書に具体化されている将来の所得の約束と交換に、私的な財を放棄している。彼らは決して、公債の購入者としての立場においては、債務の創出によってファイナンスされた公的な財のために何かを放棄したわけではないのである。彼らは、公債の購入者としての立場においては、財政上の交換に直接的に参加してはいない。

 リアル・コスト・アプローチは、公債には二つの別個の交換が含まれているという事実を隠している。基礎的な財政上(fiscal)の交換においては、個人は、有権者=納税者=受益者として、将来の期間において公債の利子と元本を支払うという自らの約束と引き換えに、公的な支出による便益を確保している。派生的な金融上(financial)の交換においては、個人は、公債証書の購入者として、現在の期間における自らの購買力の犠牲と引き換えに、将来の所得についてのこれらの約束(訳注:上記の納税者の約束を指す)を確保している。公債証書の購入者は将来の所得を確保するために現在の私的な財を諦めているのであって、公的な財を確保するためにそうしているのではない。有権者=納税者は現在の財を諦めているわけではなく、将来の期間において私的な財を放棄することを約束することによって、公的な財の便益を確保している。将来の納税者が、公債の保有者に対して支払を実施するときに、これらの(訳注:公的な)財に対しての支払を為すことになる。

 公債証書の購入の本質について述べるとき、この二重の交換がはっきり明らかになる。証書の購入者は、この過程において、私的な財産の純減を被らない。実際の公的な支出がなされた期間において、購買力を放棄する他の誰かがいるわけでもない。もしいかなるコストも先送りされていないなら、この支出は犠牲無しにファイナンスされたことになる。このような理屈が成り立つなら、どうして税金が徴収されなければならないのか? 税金によるファイナンスの場合では明らかに現在のリアルなコストが生じるのであり、私的な財産の減少を受ける個人が存在する。いずれの場合においても公的な支出が高い便益を生むと仮定しよう。税金によるファイナンスでは、これは私的な所得と財産の減少によっていくらか相殺される。公債によるファイナンスでは、もしリアル・コスト論が成り立つのであれば、相殺が生じる必要はなく、つまり私的な所得と財産が公的な支出の便益と相殺に減じられることはない。国民会計は個人のバランスシートに対する影響にも注意を払うべきである。それが為されたとき、公債についての基本的な原理は明白となり、リアル・コストの誤謬は見られなくなるだろう。(次回「内国会計の誤謬」に続く)

*1:訳注:著者らがこの節に先立っておこなった議論を指しているが、それを知らなくともこの節を読むの支障はない。