”債務負担についての誤謬”(2/3)

前回に引き続き、ブキャナン*1とワグナーの"Public Debt in a Democratic Society"から、"The Fallacies of Debt Burden"という議論を紹介する。第2回となる今回は、「外国債は負担を生じるが、内国債は負担を生じない」という見解について検討が加えられる。以下翻訳。

 

内国会計の誤謬

 密接に関係している、しかし別の議論が、公債の負担に関する3つの誤った結論を支えている。ここにある中心的な誤謬は単に会計についてのものである。

 先述した公債負担の分析*2では、公債が発行されたとき、誰がそれを購入するのかについては注意が払われていなかった。基本的な原則についての冒頭のサマリーでは、公債を購入する人々が市民か外国人かは、何ら違いを生じない。このレベルの議論では、内国債(internal (domestic) public debt)と外国債(external (foreign) public debt)はほぼ完全に無差別である。いずれ場合でも、有権者=納税者=受益者としての立場においての個人は、貸し出す意思を示した他の個人から資金を借り入れる。貸し手が、状況によっては、借り手と同じ政治的集団のメンバーであるかもしれないという事実は、この分析にとって関係がない。両者が政治的に同一のグループであれ、個人は借り手と貸し手という二つの異なる立場において振舞うだろう。

 我々が提示したシンプルな分析とは際立って対照的に、公債の負担についての3つの誤った結論に至る議論は、国内で保有される(internally-held)公債と国外で保有される(externally-held)公債との区別に決定的に依存している。外国人による国債の購入と保有に関する議論については、つまり外国債については、異論を唱えるべき点は比較的少ない。大部分の学者は、普通の市民と同様に、基本的な原則を受け入れている。外国債はそれによってファイナンスされた公的な財の機会コストを先送りすることを可能にし、そのコストは発行後の期間において支払わなければならない利息と償還費によって測定される。このことから、外国債はその本質的な点において、私的な債務と類似していると認められる。

 論争は内国債の負担についてのみ生じる。内国債は負担の先送りを生じさせないし、本質的な点において外国債や私的な債務と異なるものだと主張されている。

 どの時点において債務負担が生じるかということが、誰が公債を購入するかということに、なぜ決定的に依存しなければならないのか? なぜ外国債は内国債と根本的に異ならなければならないのか? 米国債を購入するのがロンドンの銀行かドイツのビジネスマンかということが本当にそれほど重要なのか? この違いが米国の納税者の経済的状態にどうやって影響するというのか?

 ここにあるのは単純な会計についての混乱であり、例を示すことが解決の助けになるだろう。

 A氏とB氏という、あらゆる面において同等と仮定される2人だけから成る小さなコミュニティを考えよう。公債の発行前には、2人の市民のそれぞれのバランスシートは次の通りである。

f:id:u-account:20190402011754p:plain
 今、コミュニティ(AB)が、公債の発行によって公的な財のプロジェクトをファイナンスすることを決定するとしよう。話を簡単にするために、このプロジェクトは100ドルのコストによって100ドルの便益を生む、と仮定する。さらに、便益はAとBが等しく分けあうと仮定する。

 今、内国債が発行されたとする。A氏が100ドルの公債証書を購入するとしよう。プロジェクト実行直後、2人のバランスシートはどのようになるだろうか? 

f:id:u-account:20190402011738p:plain

 公的支出と公債発行の両方を実行した結果として、2人の純資産はそれぞれ全く変化していないことに注意しよう。この点はプロジェクトの便益がコストに等しいという仮定によって保障されている。もしプロジェクトがより便益の大きいものであることを仮定すれば、当然2人の純資産は増加するし、その反対も言える。

 この結果を、公債が外国人に売られた場合の結果と比較しよう。先程と同じ公的プロジェクトについて、それを実行した後のAとBのそれぞれのバランスシートを考えよう。

f:id:u-account:20190402011715p:plain

 これらの基本的なT字勘定から導かれる結論は明らかである。内国債の場合と外国債の場合とで、2人の純資産に違いは存在しない。

 この極めてシンプルな会計的同一性が、これら二つの公債の形態の間に重要な違いがあると主張する論者によって暗に否定されてきたのはなぜだろうか? 既に議論したように、リアル・コストの誤謬に責任の一部がある。公債証書が外国に売却されたとき、公的な財を生産するための資源は、政治的共同体の経済的境界の外側からもたらされる。そこには政治的国境を跨ぐ、物理的に観察可能な資源のフローが存在している。最初の期間、すなわち公債証書が発行され、公的な財が建設される期間においては、その経済の内側にある資源は、つまり国内の資源は、公的な使用に振り向けられない。このような物理的資源のフローだけを皮相的に眺める観察者にとっては、この最初の期間にはリアルなコストが発生していないように見える。コミュニティのメンバーは誰も、私的な財やサービスに対する支配を放棄したり犠牲にしたりしているところを観察されない。バランスシートで見た場合に、外国債と内国債とで厳密に同一のことが起きているという事実は、ほとんど全く見過ごされてきた。

 この見過ごしは、債務の負担について誤った問題を提起しがちな学者たちによって強化されてきた。彼らは存在している債務を保有していることの負担を定義することに不当に集中しているが、そうではなくて、創出されようとする潜在的な債務の負担が正しく問題にされるべきなのである。もし公債が存在しているのであれば、それが国内か国外かいずれで保有されるものであっても、当然、負担である。しかしこの負担ないしコストがどこに生じるのかは、新規の債務の発行や既発の債務の償還についての意思決定がなされる場合に、その場合にのみ問題にできるのである。

 もし存在している公債の負担を定義することのみに関心が集中すれば、内国債と外国債は異なった影響を及ぼすように見え、内国会計の誤謬はより捉えがたくなる。外国債の利子を払い、償還を行うためには、資源は政治的単位の境界を越えて移転されなければならない。つまり支払は公債証書を外国で保有する人々に対してなされる。公債証書が領域内の市民によって保有され、利払いと償還がその経済の内部で行われる場合にはその必要はない。この明らかな違いから、他の条件が等しければ、外国債は内国債よりもいくらか「負担が重い」といえるかのように見える。

 この一見問題のない分析は、この状況では、他の条件が等しいことは不可能であるという事実を無視している。このことを明瞭にするためには、存在している債務がかつて発行された期間に立ち戻り、先にシンプルなT字勘定を使っておこなったように、個々人のバランスシートへの影響を追跡する必要がある。外国債が発行されたとき、つまり公債証書が外国人に売却されたとき、資源はその経済の外部から流入する。これらの追加的な資源は、内国債の場合には公的な財の生産に使われ得ていたであろう国内の資源の代わりに使われるものである。したがって国内経済には内国債の場合よりも多くの資源が投下されたまま残っており、これらの資源は、借入が競争的な条件で実施されたとさえ仮定すれば、外国債に対する利子の支払いを為すのに十分なリターンを生む。負債によってファイナンスされた公的支出の生産性に関わらず、公債証書以外の形態で保有される市民個人の請求権は、同じ金額の内国債が発行された場合の請求権よりも、ちょうど対応して高くならざるを得ないのである。これらの資産は国外で保有されている債務に対する利子を支払うのに十分な資源を供給するだけの標準的なリターンを生む。ひとたびこの事実が認識されれば、外国債がより「負担が重い」と論じることは不可能である。(最終回「移転支出の誤謬」に続く)

*1:1986年ノーベル経済学賞受賞。

*2:訳注:前回も注をつけたが、これは翻訳箇所に先行しておこなわれた著者ら自身の議論を指している。

”債務負担についての誤謬”(1/3)

今回から3回にわたって、ブキャナン(1986年ノーベル経済学賞受賞)とワグナーによって1967年に著された"Public Debt in a Democratic Society"から、"The Fallacies of Debt Burden"と題された議論を紹介する。第1回となる今回は、「負担とは現在の資源の減少であるから、公債の負担が将来に転嫁されることはない」という見解(リアル・コスト説)が検討される箇所である。以下翻訳。

 

債務負担についての誤謬

 上記のシンプルな原理*1を受け入れることに対してなお拒否する経済学者さえいなければ、「公債の負担」についてこれ以上議論すべきこともなかっただろう。この拒否反応は絡み合った一連の誤謬に基づいており、批判的かつ慎重な検討を要する。これらの誤謬を打ち捨てることは重要である。分析家の間で意見の一致が生じつつあるにもかかわらず、これらの誤謬は今なお経済学の初級教科書の多くに見つけることができる。それだけに、債務負担のシンプルな分析を否定する意見の説得力に注意が払われるべきである。

 いくつかの誤謬が組み合わさることで3つの関連した結論が生み出されているが、それぞれが単に間違っている。間違った結論とは次のようなものである。

(1)公債の負担が時間的に(訳注:将来世代などに)先送りされることはない。

(2)内国債の影響は外国債と根本的に異なる。

(3)内国債を私的な債務(訳注:家計や企業の借金)に喩えることはできない。

これらの誤った記述をすべて含んだ教科書も存在する。その背後にある分析には、実際、説得力がある。その議論は凝ったものであり、誤謬が捉えにくくなっている。

 

リアル・コストの誤謬

 コミュニティ全体にとってのコストないし負担を先送りすることは不可能であるという議論が、18世紀からさまざまになされてきた。この見解では、経済的資源の物理的な使用に力点が置かれる。公債は歴史的には戦費の支出に関連しており、他ならぬこの議論は、負債によってファイナンスされた戦争経費の負担に着目してきた。銃を作るための鉄など、軍事装備に転換される資源は、銃が生産された期間においての経済それ自体から持ち出されたものでしかありえない、とこの議論は述べる。この観点からするとコストの先送りは不可能である。戦費支出のリアル(実物的)なコストは、銃を生産するために諦めなければならないバターのような、民間の財の現在の減少に代表される。戦費支出のリアルなコスト、つまり負担は、実際のファイナンスの手段が課税であれ、通貨インフレであれ、債務の発行であれ、必然的に現在のものである。

 一見したところでは、この議論には実際に説得力があり、そこに含まれる誤謬は容易には認められない。関心が集計的な影響に限定されている限り、この議論に間違いはないように見える。国民会計(National Accounting = 国民経済計算)の用語で言えば、公的支出の増加は公的部門ないし政府による資源の使用の増加を意味し、民間の支出と民間による資源の使用は減少する。この変化は公的支出のファイナンス手段に関わらず生じる。債務と課税とは公的な財のコストを配分するための代替可能な手段であり、これら2つの手段の間で、コストの負担先に関する時間的な違いは無いとされる。

 ここにある誤謬を捉えるには、先に強調した定義的手段的な問いに立ち返らなければならない。もし公債が、全体としては、公的な財の機会コストを先送りしないのであれば、誰がそれらのコストを払っているのか? もしこれらのコストが、資源が使用された期間において生じなければならないとすれば、コミュニティ内のどの個人やグループが、公的な財と交換に私的な財を諦めているのか?

 銃を製造するための資源はどこからやってくるのか? この議論(訳注:リアル・コスト論)によると、政府の証券を購入する人々、つまり公債証書を購入する人々が公的な財のコストを負っていることになる。しかし本当か? これらの人々は、債務の創出と公的な支出が行われる期間において、私的な財に対する支配を放棄している。このことは疑う余地がない。その意味において、これらの人々はコストを負っており、負担を背負っている。だが何の目的で? 彼らは私的な財を犠牲にするのと交換に、何を確保しているのか? この問いは、リアル・コスト論の推進者からは発せられなかったものだ。

 ひとたびこの問いが立てられれば、この議論の弱点が明らかになる。公債証書を購入した個人は、公債証書に具体化されている将来の所得の約束と交換に、私的な財を放棄している。彼らは決して、公債の購入者としての立場においては、債務の創出によってファイナンスされた公的な財のために何かを放棄したわけではないのである。彼らは、公債の購入者としての立場においては、財政上の交換に直接的に参加してはいない。

 リアル・コスト・アプローチは、公債には二つの別個の交換が含まれているという事実を隠している。基礎的な財政上(fiscal)の交換においては、個人は、有権者=納税者=受益者として、将来の期間において公債の利子と元本を支払うという自らの約束と引き換えに、公的な支出による便益を確保している。派生的な金融上(financial)の交換においては、個人は、公債証書の購入者として、現在の期間における自らの購買力の犠牲と引き換えに、将来の所得についてのこれらの約束(訳注:上記の納税者の約束を指す)を確保している。公債証書の購入者は将来の所得を確保するために現在の私的な財を諦めているのであって、公的な財を確保するためにそうしているのではない。有権者=納税者は現在の財を諦めているわけではなく、将来の期間において私的な財を放棄することを約束することによって、公的な財の便益を確保している。将来の納税者が、公債の保有者に対して支払を実施するときに、これらの(訳注:公的な)財に対しての支払を為すことになる。

 公債証書の購入の本質について述べるとき、この二重の交換がはっきり明らかになる。証書の購入者は、この過程において、私的な財産の純減を被らない。実際の公的な支出がなされた期間において、購買力を放棄する他の誰かがいるわけでもない。もしいかなるコストも先送りされていないなら、この支出は犠牲無しにファイナンスされたことになる。このような理屈が成り立つなら、どうして税金が徴収されなければならないのか? 税金によるファイナンスの場合では明らかに現在のリアルなコストが生じるのであり、私的な財産の減少を受ける個人が存在する。いずれの場合においても公的な支出が高い便益を生むと仮定しよう。税金によるファイナンスでは、これは私的な所得と財産の減少によっていくらか相殺される。公債によるファイナンスでは、もしリアル・コスト論が成り立つのであれば、相殺が生じる必要はなく、つまり私的な所得と財産が公的な支出の便益と相殺に減じられることはない。国民会計は個人のバランスシートに対する影響にも注意を払うべきである。それが為されたとき、公債についての基本的な原理は明白となり、リアル・コストの誤謬は見られなくなるだろう。(次回「内国会計の誤謬」に続く)

*1:訳注:著者らがこの節に先立っておこなった議論を指しているが、それを知らなくともこの節を読むの支障はない。

日本の労働生産性に関する基本的な事実

今から言うことは大した話じゃないけど、巷の議論を見ていると意外に共有されていないようなので記事にしておく。なおここで労働生産性はGDP per hour worked (USD, constant prices, 2010 PPPs)を使っている。 

日本の労働生産性は昔から低い

他の主要先進国と比べて一貫して低い。ジャパンアズナンバーワン等と言われた頃でも普通にG7最下位だった。バブル崩壊や失われた20年で順位が下がったわけじゃない。

f:id:u-account:20190330002842p:plain 

失われた20年の間も労働生産性は上昇している

上のグラフの通り、労働生産性は2007から2009年の期間と2015年から2016年の期間に低下したのを除き、バブル崩壊後も上昇を続けている。

労働生産性の成長率は漸減している

f:id:u-account:20190330005553p:plain

 グラフは労働生産性の成長率(対前年)。長期的な趨勢として日本の労働生産性の成長率は低下している。ただし、これは欧州の先進国も同様。米国はあまり低下していないが、1970年の時点でもともと高くなかった。単に、経済が成熟するにつれて収益機会が減少するというだけのことだと思われる。

2000年代の成長率では日本の一人負けというより米国の一人勝ち

f:id:u-account:20190330011802p:plain

1枚目のグラフを2000年=1.0として書き直したもの。2000年代の日本の労働生産性の成長率は他のG7諸国と比べても遜色がなく、むしろ上から数えたほうが早い。日本が低いというより米国(特に2000年代前半)の調子が良すぎた。その米国も近年はやはり停滞気味だが。

「貨幣進化論」の政府・中央銀行清算をBSで表示する

貨幣進化論―「成長なき時代」の通貨システム (新潮選書)

貨幣進化論―「成長なき時代」の通貨システム (新潮選書)

 

 この本の第一章では小さな島の箱庭的な経済という、それだけならありふれた思考実験が描かれている。ありふれていないのは、政府と中央銀行の最後の日、すなわちその清算までが描写されている点だ。

 この描写をする際、著者の頭の中には明らかにバランスシートが想像されていると思われるが、バランスシート自体の解説をする煩雑さを避けるためか、説明はすべて文章と簡単な図のみで行われている。

 バランスシートが分かる人にとっては、それがあった方がやはり分かりやすいだろうと思ったので、第一章「最後の日の貨幣」における各主体のバランスシートを以下に示した。

 解説はしない。著者自身の描写が傑出しているので余計な解説を加えることは避けたい。以下のバランスシートと照らし合わせながら本文を手にとって読んで欲しいと思う。

f:id:u-account:20190321162648p:plain

一点だけ余計なことを言うなら、別に著者は(おそらく)無政府主義者ではないので、政府と中央銀行を清算せよと主張されているわけではない。だが実際には清算しないとしても、それが問題なく可能であることが貨幣価値を維持するための条件である、と著者は暗に主張しているのだ。最後の王と王妃の会話はそのように読まれるべきだろう。

というか、JR北海道は”民営”なのか?

b.hatena.ne.jp

 ある人はいう、JR北海道の民営化は失敗だったと。また別の人はいう、JR北海道の民営化は間違っていなかったと。僕に言わせてもらえば、こんなものは擬似問題だ。だって、JR北海道は公営なんだから。

 民営化の定義を争うつもりはないので次の事実を知ってほしい。JR東海、JR東日本、JR西日本はいずれも金融機関や個人などを株主とする上場企業だ。一方、JR北海道は株式の100%を鉄道建設・運輸施設整備支援機構(JRTT)に保有されている。

 JRTTというのは国交相所管の独立行政法人で、政府が100%出資している。結局のところ政府はJRTTを通してJR北海道の株式を100%保有していることになる。JR北海道は政府の完全子会社なのだ。

 JR北海道の経営者は株主総会によって選任されるけど、株主はJRTTだけだから、国交省はJRTTを通して社長人事も思うがままだ。実際、国会議事録を見ると、国土交通大臣がJR北海道社長の事実上の任命権者であることが分かる場面がある。

 ついでにいうと、JR北海道の借入金は大部分がJRTTからの借入金で、JRTTの借入金は大部分が財政投融資だ。国の100%出資で、国に人事を握られ、国から金を借りている民営化って何だ?

 実際のところJR北海道は民営化していないのであって、JR北海道の赤字も公営企業が赤字を垂れ流し続けているというありふれた話でしかない。もちろん、ありふれたことだから許せなんていうつもりで言ってるわけじゃない。

 こんなものを民営化なんて呼ぶべきじゃなかったのだ。JR北海道という公営企業の失敗が『民営化』の失敗にされ、企業の規制や公営化を求める口実にされてしまえば、喜ぶのは権力を強めたい政治家や官僚だ。

  それでも僕は、JR北海道の『民営化』をちょっとばかりは評価している。JRTTが独立行政法人として、JR北海道が株式会社として切り出されたおかげで、赤字の実態や国からの金の流れが見えやすくはなったからだ。見えないところでひっそりと税金が注ぎ込まれるよりはましだと思いたい。

おまけ

 分割して民営化したのが間違いだった、という話もあるようだ。でもこれは本質的じゃない。JR東日本とJR北海道を統合したとして(その運営主体が国か民間かはここではどうでもいい)、旧JR東日本の黒字を旧JR北海道につぎ込めば旧JR北海道の赤字は消えるかもしれない。けど旧JR北海道を廃線にすれば旧JR東日本の黒字を他のことに使えるのに、なぜ旧JR北海道の路線の救済に使わなきゃならないんだ? という形で同じ問いが再浮上してしまう。

生産性の向上が飢餓をもたらすことはできない

togetter.com

上の記事はアフリカ諸国の飢餓の原因を米国などからの安価な輸入食料に求めている。安価な輸入品との競争に負けた自国の農業が立ち行かなくなり、他に働き口もないので飢餓になったのだという。

 本当に? だって自国の農業を駆逐するほど膨大で安価な食料が外国から流入しているのなら、つまり外国がそれを売ってくれていて、自国がそれを買えているのなら、それを食べればいいのだから飢餓にはならないじゃないですか。反対に、もし外国が自国に安価な食料を売ってくれないのなら、今まで通り自国で食料の生産を続けるだけなので、(自国には本来飢餓にならないだけの生産力があったという想定ですから)やはり飢餓にはならないじゃないですか。明らかに、何か見落としがある。

モデルで考える

単純なモデルを考えよう。 世界にはA、Bの2カ国のみが存在し、それぞれ独自の通貨(AD, BD)を使用している。財は1種類(食料)のみ。生産要素は労働のみで資本財はなし。生産技術は規模に関して収穫一定。A国は1人時の投入で1単位の食料を算出するのに対し、B国は同じ投入で2単位の食料を産出する(要するにB国の生産性はA国の2倍とする)。*1

 はじめ、A国は閉鎖経済(=輸出入なし)とする。A国人は1時間の労働で1単位の食料を産出し、これを国内市場で売却して例えば100ADの所得を得、その所得で1単位の食料を購入し消費する。

 ここでA国が開国し、B国から食料の輸入を開始したとしよう。当初、輸入食料1単位の価格は1BD=80ADだったとする。さて、A国産の食料は、より安いB国産の食料に駆逐されてしまうだろうか?

 今、B国産の食料価格がA国のそれよりも安いことから、A国では食料生産が行われず、B国からA国に一方的に食料が流入する。ところでA国から輸入すべき生産物が存在しないので、B国人は輸出の代金にADを受け取ったところでまるで使い道がない。ということは、ADを受け取ったB国人は、それを為替市場で売却してBDを購入する。あるいはA国人は輸入の支払のために、やはり為替市場でADを売却しBDを購入する。

 つまりB国からA国に一方的に食料が流入し続けるならば、その裏側で、AD安BD高が一方的に進行せざるを得ないわけだ。反対にB国の食料価格の方が高ければ逆のプロセスが進行するから、結局、食料1単位=100AD=1BDで均衡する。

 均衡においてA国人は1時間の労働で1単位の食料を産出し、これを市場で売却して100AD=1BDの所得を得、その所得で1単位の食料を購入し消費する。A国人の生活水準は貿易開始前と全く変わっていない。

 ついでにB国人の方を見ると、1時間の労働で2単位の食料を産出し、これを市場で売却して2BD=200ADの所得を得、その所得で2単位の食料を購入し消費することになる。A国との生活水準の差は生産技術の差から直接に帰結している。

冒頭の話は何を間違えていたのか

冒頭の話の問題は今や明らかになった。それは国際的な価格決定メカニズムを考慮していなかったことにある。為替レートを無視して「安い輸入財」を外生的に仮定することなんて出来やしないのだ。

 さてこのモデルは単純だが重要な含意を与えてくれる。A国の生活水準は貿易開始前と比べて低下していない。貿易開始前にも後にも、A国人はただ自分が生産したのと同じだけの食料を消費する。B国人がどれだけ生産性を向上させようが、それによってA国人を絶対的な意味で貧困化させることはできない。A国が貧困国だとすれば、その原因には何よりもA国自身の絶対的な生産性の低さが疑われなければいけない。

 ついでにもうひとつ、このモデルは1財モデルだから比較優位は存在しない。貿易が基本的に無害であることを示すには比較優位を持ち出さなくても足りるわけだ。そして比較優位の原理が生じる多財モデルと異なり、この1財モデルではA国の生活水準は貿易前と比べて改善してもいない。これは貿易の利益が分業から生じることを示している。

*1:1財1生産要素なので生産性は 財の産出量/生産要素の投入量 によって定義される。

それでも貿易はインドを豊かにする

b.hatena.ne.jp

上の話によると、東インド会社の時代、インドの綿製品よりも遥かに安い大英帝国の綿製品がインドに流入したことにより、インドの伝統的な紡績業は壊滅してしまったという。それが大反乱を招いたとも。

 本当にこれだけの話なら、英国産の綿製品の流入が紡績業従事者を除くほとんどのインドの人々にとって良いことだったのは明らかだ。彼らは従来よりも遥かに安く綿製品を入手し、余った所得を別のことに使えるのだから。

 そして紡績業に携わる人々にとって悪いことだったのかも自明じゃない。彼らの所得が例えば80減ったとしても、従来100払わなければ買えなかった綿製品が10で買えるのなら彼らの生活は改善する。

 比較優位の原理を腐すコメントもあるようだけど、インドは一方的に商品を買っていたわけじゃなく、インドからは原材料の綿花が輸出されていた。労働集約的なインドからは綿花が、資本集約的な英国からは綿製品が輸出されるというのは基本的に比較優位の原理(の拡張版であるヘクシャー・オリーンの定理)に合致する。

  ところで、仮に輸出する商品もなく一方的に輸入し続けるとして、どう問題なんだろうか? いつかこっちの代金が枯渇して向こうが売ってくれなくなることだけが問題なのであって、売ってくれる分には頂戴しておけばいいでしょう。

 大反乱について言えば、当時の東インド会社がインドの実質的な統治者だったことを忘れるわけにはいかない。重税や藩王国の取り潰しに対する抵抗という面を抜きに、商品の輸入が大反乱を招いたように語るのは公平じゃない。

f:id:u-account:20190310130828p:plain

 実際のところインドの一人あたりGDPはムガル帝国時代から緩やかに下降していて、大反乱(1857)前の東インド会社による決定的な影響は見られない。*1 大反乱後しばらくしてから成長に転じるのは、大英帝国による直接統治が始まって、英国からの対内直接投資が増加したからじゃないかと思われるけど、20世紀半ばには再び停滞する。

 結局、インドが飛躍的な成長を遂げるのは1990年代を待たなきゃならなかった。つまり、主にラオ政権以降、政府による複雑な許認可制度が廃止され、電力・港湾などのインフラ投資に民間資本や外資の導入が認められ、公的企業の売却が行われ、そして、貿易の自由化が進められることを。

 インドを独立させたガンディーはおそらく偉大な指導者だった。けれど彼の考えとは違って、インドの経済を蘇らせたのは糸車じゃなく、インドの人々の企業家精神であり、外資であり、貿易だったのだ。

*1:グラフはMaddison Projectによるインドの一人あたり実質GDPの長期推計。縦軸は2011年のUSD。