信用創造の話

信用創造とは銀行が貸付を行うことだ。このとき貸付と同額の預金が借手の口座に振り込まれる。銀行と借手がそれぞれ次の仕訳を切ることだ、といってもいい。

銀行: 貸付/預金

企業: 預金/借入

 ある論者はこれをみて、貯蓄(預金)は貸付と同時に創造されるのだから、銀行の貸付は家計の貯蓄に制限されないのではないか、という。また別の論者は、際限なく預金を生み出せることが過度のインフレを引き起こすのではないか、という。

 僕は単に次のことを指摘したい。上の仕訳では、何も起こっていない。銀行が借手に対して債権を持ち、同じ相手に同額の債務を負う。僕があなたに100万円を払いますという証書と、あなたが僕に100万円を払いますという証書を交換しても、その時点では何も起こっていないといっていい。

 何かが起こるのは次の時点だ。借手(企業だとしよう)がその資金を元に、家計から土地を購入する。ここで銀行が債権を持っている相手と債務を負っている相手が初めて捩れる。仕訳は次の通り。

家計: 預金/土地

企業: 土地/預金

各主体のBS増減をまとめると次の通り。

企業: 土地/借入

銀行: 貸付/預金

家計: 預金/土地

 2点指摘したい。1つは、無から有が生まれたのではないということ。企業が事業に使用するだろう土地は、そうでなければ家計が、家を建てるなり趣味の園芸に使うなり他のことに使えた。企業の土地への投資は、家計がそれを放棄することで初めて可能になっている。

 2つ目は、ここで起きたことは銀行の信用創造を持ち出さなくても、企業と家計の直接のやり取りで擬制できるということ。要するに、企業が家計から土地を譲り受け、対価として自ら発行した証書(手形を考えてもいい)を引き渡すのと同じことだ。その証書は預金と同じように貯蓄であるし、なんなら(割引かれるかもしれないが)決済に使ってもいい。

 さきほどのBSを使って言えば、銀行は左手の債権で企業の右手と手を繋いでおり、右手の債務で家計の左手と手を繋いでいるだけなので、短絡させてしまっても別に同じだろう、ということだ。

 何が言いたいかおわかりだろうか? このような擬制が可能だということは、つまり、銀行の信用創造は貯蓄・投資において、本質的な(それなくしては説明できないような)役割を持っていない、ということだ。だから冒頭の論者たちの疑問は、家計と企業が直接やり取りした場合と同じ答えを持つはずだし、また家計と企業が直接やり取りした場合を経済学が説明できているのなら、それはすでに銀行の信用創造をも説明できていることになる。実際のモデルに即した説明は、長くなるので別の記事にしよう。

 最後に、それなら銀行は一体何をしているのか? 思うに、無リスク世界では間接金融としての銀行は存在しない。それは単に借手と貸手を引き合わせる仲介業者と区別がつかない。無リスク世界では手形はリスクによって割り引かれることもないので、安全な決済手段としての預金も無用である。

 逆に言うと、銀行の本質的な役割はリスクある証書や手形を安全な預金に変換することにある。リスクが消えてなくなるわけではないから、その分のリスクは銀行が負っており、それが融資の金利と預金金利の差で、銀行の儲けになる。

 仮想的に次のような銀行設立のストーリーを考えてもいい。企業と家計が直接やり取りする場合の手形を人々が持ち寄って、交換に預金証書を受け取る。これは結果的に、銀行が信用創造したのと同じことになる。預金は手形のスープである。手形の価値は企業の事業の成否によって変動してしまうが、一部の者が銀行の株主となり、その変動を吸収することで預金の価値を安定させる。

 貯蓄・投資は手形の発行時点で形成されていたので、銀行の信用創造で貯蓄や投資が生まれたわけではない。ただ預金者と株主の間でリスクが移転しただけである。信用創造という言葉で預金の創造を意味するなら、要するにそれが信用創造の機能だろう。