価値があるだけでは足りない

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人生の様々な苦難に対し、文学は考える手がかりを与えてくれる。だから文学には素晴らしい価値があるのだと、記事の学長は説く。

 僕もそう思う。でも文学の価値をいくら称揚しても、記事の冒頭の問い「文学部から税金を引き上げるべきではないか」に対する反論にはならない。

 というのは、文学がそれを学ぶ者にそれほど素晴らしい価値をもたらすなら、なおのこと、学生が自分で学費を出せばいいからだ。ビジネスマンがカルチャースクールに通ったり、主婦が習い事をするのと同じことだ。あるいは、文学の素晴らしさに共鳴する人たちに寄付を募ってもいい。

 価値がありさえすれば税金を投下していいなら、政治も経済学も無用になる。予算の制約を無視していいなら、あれもこれも、僕らの周りの価値あるものすべてに税金を注ぎ込んでしまえばいい。

 しかし、僕らの政府の予算は限られている。それは、究極的には、いかなる経済活動も物理的な資源に制約されていることに由来する。文学部を維持するとき、そこで働く優れた知性を持つ人々が他の機会にそれを役立てていた可能性を、大学の土地が他の方法で活用されていた可能性を、学生が他の挑戦に身を投じていた可能性を、僕らの社会は犠牲にしている。*1

 選択は常に、あれか、これか、という形でなされる。文学部に価値があるとしても、そこに資源を投じるのなら、その価値は資源を投じられなかった他の機会の価値を上回っていなければならない。その判断が、お金を出す学生や寄付者の自由な判断で行われるなら構わない。でも人の財布に手を突っ込もうというのなら、価値があるだけでは足りない。*2

*1:この意味で教育無償化というのはありえない。負担は常に生じる。

*2:いうまでもなく、文学部に限らず、他の文系学部や理系学部もこの批判を免れない。