政府機関はもやしの価格を「適正」にすることができるか?

headlines.yahoo.co.jp

日本の公取には安値販売を企業努力と見る意識があるが、英国には加工食品の小売価格が適正かどうかを監視する政府機関があり、参考にすべきだ

 価格の話だけで数量に触れることなく議論が進んでしまう。僕には不思議で仕方ない。上の記事ではスーパーが悪者にされているけど、スーパーだって販売数量をそのままに価格だけ上げられるなら、上げるに決まっているじゃないだろうか?

 原料価格高騰時の2013年からもやしの生産量は減ったようだけど*1、それでも価格が上がらないのは需要の価格弾力性がとても高いということだろう。要するにもやしは安いから買われるということで、これは実感とも合致する。

  もやしの価格を政府の監視機関が「適正」(どうやって決めるつもりか、いずれにしても値上げするんだろう)にしたとする。すると僕らはもやしを食べる日を減らし、この日とこの日はキャベツにしよう、などと考える。

 それならばキャベツの価格も「適正」にしてしまえ、と監視機関が考える。しかし僕らは、例えば今月は10万円という生活費の中からもやしやキャベツを買っている。あれもこれも「適正」な価格にされたら賃下げされるのと一緒だ。

 それならば給料の価格も「適正」にしてしまえ、と監視機関が考える。あらゆる価格が「適正」になっていく。なんだ、市場価格なんてはじめから要らなかったんだ! 政府は何にでも「適正」な価格が決められるんだから。僕はそういう政府を知っているよ。ソビエトっていうんだけどね。

値引きもクーポンも悪くない

www.mag2.com

値引きやクーポンを不況や低賃金の原因と考える議論は、そもそもどうして売り手が値引きするのかということをさっぱり忘れてしまっている。値引きするのは、単価が下がっても数を売ったほうがいいと売り手が判断するからだ。

  1. 粗利400円で1日500個売る
  2. 粗利300円で1日800個売る

 1より2の方が買い手にとっても売り手にとっても望ましいことは疑いない。なぜなら買い手はより安くより多くの商品を手にできるし、そのことによって売り手はより多くの利益を手にするのだから。

 冒頭にリンクを貼った記事が主張するところでは、不況の対策は消費者が背伸びをして値段の高い商品を買うことだという。でも、ルノアールのバイトはドトールのバイトより高い給料をもらっているわけじゃない。ただルノアールは単価を高く、ドトールは回転率を高くして勝負しているということだ。

イラストの価格破壊と経済学の補助線

togetter.com

イラストの価格相場が3万円であるとき、イラストを2500円で提供する人々の参入は僕らの経済をより貧しくするだろうか? 今日はちょっと変わった方法でこの問題を考えようと思う。補助線を引くのだ。

 2500円でイラストを提供する人々と3万円でイラストを提供する人々との間に国境線を引いてみる。するとこの問題が、中国から例えば安い野菜を輸入することが望ましいか、というのと同じ形をしていることが分かる。

 したがってその答えは、2500円で仕事を請けるイラストレーターの出現は既存のイラストレーターの所得を低下させるが、*1それによる経済厚生の増加は仮に彼らの所得の低下を補ったとしても余りある、というものになる。

 イラストレーターに払われる金額が減ったにどうして経済が豊かになるのかと不思議に思う人は、買い手が残りのお金を他のことに使えるのを忘れている。900円の野菜が400円で買えるようになれば、残った500円でもう一品買える。

 昨日の所得で買えなかったものが今日の所得で買えることは、経済的に豊かになることそのものだ。*2中国が安く野菜を売ってくれることが僕らを豊かにするように、安くイラストを売ってくれる人々は僕らをより豊かにしてくれる。

*1:だから既存のイラストレーターが反発するのは不合理なことではない。関税撤廃に農家が反発するのが不合理でないのと同じように。

*2:というより、そもそも所得とは表示された金額ではなく購買力によって定義すべきものである。給料が何円増減しようが、買えるものが同じなら豊かになったとも貧しくなったとも言えないだろう。名目GNPを実質GNPにする作業というのは、要するにこの調整である。

農業・市場・競争

b.hatena.ne.jp

元のツイート自体に言及したいわけじゃなく、ただそれに対する反応を見ていると、競争というものが何か酷く勘違いされている印象を受ける。政府が農家をリングに放り込んで蟲毒するようなのをイメージしているんじゃないか。しかし競争を導入せよというのは単に、政府は余計な手出しをやめよというだけのことだ。

 たとえばある土地を田んぼにするより賃貸住宅地にした方が儲かるとすれば、それは人々が住宅サービスに対してより大きな金額を支払ってくれるから、つまり、そちらのほうが人々からより求められているからだ。所有者は自分が儲けるために、この土地を賃貸住宅地にすることを選ぶだろう。人々からより求められているものを提供した生産者がより豊かになれる。これが市場における競争だ。

 ここで政府が、たとえば補助金によってこの土地を農地のままに維持した場合、特定の生産者が補助金を受け取れるという点で不公平なだけじゃなく、人々がより強く求めていたはずの賃貸住宅の供給が損なわれてしまう点で、より非効率な仕方で土地が利用されることになる。

 誤解の余地はないと思うけど、僕は農地を潰して住宅地にせよと言っているわけじゃない。土地をどのように使うかを政府が指図しようとするの自体がおかしいということだ。米が欲しいか、野菜が欲しいか、部屋を借りたいか、そんなことはお金を払う人自身が一番よく知っている。*1 *2

*1:余談だけど、農業政策を見ると、自民党が新自由主義で競争を推進してきたなんて話はちゃんちゃらおかしく思われる。小泉政権のときに一時期そのような政策の萌芽は見られたけども、中途半端な形で終わっている。全体としては自民党は農家を補助金漬けにし票田化してきた。森友加計も真っ青だ。

*2:食料自給率については、

u-account.hatenablog.com

研究者が公金で養われることを当然だとする見解について

http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/mixingale/status/929004106462642176

「研究になぜ公金をつっこむのか」って意見があるみたいだから研究活動の成果を公金を支払って一括利用する仕組みをやめて全部逐一利用料をとりたてる仕組みに変えてみたらいいんじゃない。まず数学者が地主並みに儲かることになるだろう。アンチコモンズの悲劇で利用料は恐ろしい額に達するだろう。

 上は先日話題になっていたツイートだ。このような制度変更をした場合にアンチコモンズの悲劇が生じることに異論はない。けれど「研究になぜ公金をつっこむのか」の回答として当を得たものだとは思われない。

 アンチコモンズの悲劇が生じるのは供給者に独占を認めるからだ。むろん現行の法制度では学術的真理に知的財産権は認められない。*1上のツイートでは、学術的真理の発見者に強力な独占を認めるという現行制度とかけ離れた想定をした場合に、その利用が社会的に望ましい水準よりも過小になってしまう、ということが示されているにすぎない。*2何かがうまくいくことを示す場合にはその一例を挙げれば足りることもあるかもしれないが、うまくいかないことを示す場合に、うまくいかないに決まっている特定の一例を挙げられても仕方ない。

 もちろん上のツイートは、学術的真理に全く何の権利も認めない場合には、その私的供給が最適な形では行われないことを前提としたものだろう。つまりその場合には、コカコーラのレシピのように発見者が成果を秘匿してしまうか、それができなければ研究費用が回収できず十分な投資が行われないので、やはり学術的真理の供給は社会的に望ましい水準よりも過小になることが予想される。

 であれば、完全な独占と無権利の中間に適切な制度設計を探ろう、というのがあるべき議論のはずだ。実際、アンチコモンズの悲劇は他の知的財産についても生じうるが、例えば小説の供給が過小で困るという話は聞かない。 そこには一定の著作権が認められているが、他の小説への言及、トリックや人物造形などのアイデアの剽窃、世界観の拝借などに利用料がかかるといった話はないからだ。それが著作権の設計としてベストになっているかは分からないが、公金で小説家を養う場合よりはうまく機能していることだろう。

 いまひとつ別の論点だが、「研究になぜ公金をつっ込むのか」と述べる人の多くはそれを0円にしろと言っているのではなく、その具体的な対象と程度を問題にしているのではないか。なぜ支出の対象があちらの研究ではなくこちらの研究なのか。なぜ社会保障や防衛に予算を配分するのでなく研究なのか。なぜそれを納税者に返すのではないのか。納税者から強制的に資源を移転している以上、これらはすべて説明を要することだ。自分が公金で養われて当然であるかのような物言いを研究者が繰り返すほど、納税者の反発はより大きなものとなるだろう。

*1:ところで応用研究などでは知的財産権が認められる場合があり、実際それで稼いでいる研究機関や個人もあるはずだが、上の理屈で行けば公金で運営されている研究機関や個人は知的財産権を放棄すべきだろう。

*2:また、この想定のもとでは、たとえ公金で研究を助成したとしてもアンチコモンズの悲劇は生じる。

貿易収支を気にすることが不毛である根本的な理由は

貿易収支を気にすることが不毛である根本的な理由は、それが個々の経済主体の取引を特定の恣意的な仕方で集計した結果として表れる統計量にすぎないからだろう。

 いま、一定の領域を持つ「世界」の中に無数の経済主体が存在している。各々の経済主体は互いに商品を売買する。簡単化のため全ての売買は信用取引で行われるとする。

 たとえば僕が誰かに2000万円で家を建ててもらうと、僕はその誰かに対して2000万円の債務を負う。また僕が誰かに100万円で車を売ると、僕はその誰かに対して100万円の債権を手にする。

 なお僕が住宅ローンを負うことが良いことかは僕の人生計画次第であり、他人には関係がない。また僕が車を手放すことが良いことかも僕の人生計画次第であり、隣のタナカさんには全然どうでも良いことである。

 売買の結果として経済主体には互いに債権債務関係が生じる。「世界」中の全ての債権債務を相殺すれば当然にゼロである。ある一定期間(たとえば1年間)の債権の増分と債務の増分を相殺しても、やはり当然にゼロである。

 ここで「世界」に1本の(別に何本でもいいのだけど)線を引き、その領域を「東」と「西」に区分しよう。そして各領域ごとに、領域内の債権債務を相殺すれば、どちらかには純債権が残り、もう一方に同額の純債務が残る。

 一定期間の純債権の増分(または純債務の減分)はその領域の貿易収支を意味している。「東」領域内の1年間の債権債務増減を相殺した結果として純債権増が生じていれば「東」は貿易黒字国であり、「西」は貿易赤字国である。

  さて、それが増えたり減ったりしたからといって、何なのだろう? 僕の住宅ローンは「西」の貿易赤字の一因かもしれないが、僕がそれを払えるなら問題ないし、払えなかったとしても「西」に住むの他の人に迷惑はかからない。

 貿易黒字や貿易赤字と言ったところで、その中身は個々の経済主体の(広い意味での)債権債務増減の積上げである。それは個々の経済主体の問題であって、「東」や「西」を主語にして論じても得るものがない。

豊田市は都民の仕事を奪うか?

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たとえば僕が東京都に住んでいて、豊田市で生産された300万円のプリウスをローンで買う。この取引は僕にとってもトヨタにとってもよいことだ。なぜなら僕は買いたくて買ったのだし、トヨタは売りたくて売ったのだから。

 もし都民から自動車製造の仕事を奪っているとしてトヨタを批難するとしたらちゃんちゃらおかしな話だ。車も野菜も都内で作ろうと試みるなら都民の生活水準が低下することは疑いない。

 豊田市から自動車を買い、千葉県から野菜を買っているからこそ、東京都民はサービス業や金融業にその分の人手を割くことができる。要するにこれは分業で、どちらが何かを奪っているという関係にはない。

 ここで豊田市と東京都の間に国境を引いたなら、僕がプリウスを買うことは輸入を意味し、300万円のローン債務は貿易赤字の増加となる。けれどたまたま国境を挟んだだけで、僕がプリウスを買うことが突然悪いことになるはずもない。

 外国との取引を閉ざし、隣の県、隣町との取引を閉ざし、他企業との、隣の机のやつとの取引を閉ざせば、僕らは誰からも仕事を奪われない。その代わり世界は少しずつ自給自足に戻っていく。