農業・市場・競争

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元のツイート自体に言及したいわけじゃなく、ただそれに対する反応を見ていると、競争というものが何か酷く勘違いされている印象を受ける。政府が農家をリングに放り込んで蟲毒するようなのをイメージしているんじゃないか。しかし競争を導入せよというのは単に、政府は余計な手出しをやめよというだけのことだ。

 たとえばある土地を田んぼにするより賃貸住宅地にした方が儲かるとすれば、それは人々が住宅サービスに対してより大きな金額を支払ってくれるから、つまり、そちらのほうが人々からより求められているからだ。所有者は自分が儲けるために、この土地を賃貸住宅地にすることを選ぶだろう。人々からより求められているものを提供した生産者がより豊かになれる。これが市場における競争だ。

 ここで政府が、たとえば補助金によってこの土地を農地のままに維持した場合、特定の生産者が補助金を受け取れるという点で不公平なだけじゃなく、人々がより強く求めていたはずの賃貸住宅の供給が損なわれてしまう点で、より非効率な仕方で土地が利用されることになる。

 誤解の余地はないと思うけど、僕は農地を潰して住宅地にせよと言っているわけじゃない。土地をどのように使うかを政府が指図しようとするの自体がおかしいということだ。米が欲しいか、野菜が欲しいか、部屋を借りたいか、そんなことはお金を払う人自身が一番よく知っている。*1 *2

*1:余談だけど、農業政策を見ると、自民党が新自由主義で競争を推進してきたなんて話はちゃんちゃらおかしく思われる。小泉政権のときに一時期そのような政策の萌芽は見られたけども、中途半端な形で終わっている。全体としては自民党は農家を補助金漬けにし票田化してきた。森友加計も真っ青だ。

*2:食料自給率については、

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研究者が公金で養われることを当然だとする見解について

http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/mixingale/status/929004106462642176

「研究になぜ公金をつっこむのか」って意見があるみたいだから研究活動の成果を公金を支払って一括利用する仕組みをやめて全部逐一利用料をとりたてる仕組みに変えてみたらいいんじゃない。まず数学者が地主並みに儲かることになるだろう。アンチコモンズの悲劇で利用料は恐ろしい額に達するだろう。

 上は先日話題になっていたツイートだ。このような制度変更をした場合にアンチコモンズの悲劇が生じることに異論はない。けれど「研究になぜ公金をつっこむのか」の回答として当を得たものだとは思われない。

 アンチコモンズの悲劇が生じるのは供給者に独占を認めるからだ。むろん現行の法制度では学術的真理に知的財産権は認められない。*1上のツイートでは、学術的真理の発見者に強力な独占を認めるという現行制度とかけ離れた想定をした場合に、その利用が社会的に望ましい水準よりも過小になってしまう、ということが示されているにすぎない。*2何かがうまくいくことを示す場合にはその一例を挙げれば足りることもあるかもしれないが、うまくいかないことを示す場合に、うまくいかないに決まっている特定の一例を挙げられても仕方ない。

 もちろん上のツイートは、学術的真理に全く何の権利も認めない場合には、その私的供給が最適な形では行われないことを前提としたものだろう。つまりその場合には、コカコーラのレシピのように発見者が成果を秘匿してしまうか、それができなければ研究費用が回収できず十分な投資が行われないので、やはり学術的真理の供給は社会的に望ましい水準よりも過小になることが予想される。

 であれば、完全な独占と無権利の中間に適切な制度設計を探ろう、というのがあるべき議論のはずだ。実際、アンチコモンズの悲劇は他の知的財産についても生じうるが、例えば小説の供給が過小で困るという話は聞かない。 そこには一定の著作権が認められているが、他の小説への言及、トリックや人物造形などのアイデアの剽窃、世界観の拝借などに利用料がかかるといった話はないからだ。それが著作権の設計としてベストになっているかは分からないが、公金で小説家を養う場合よりはうまく機能していることだろう。

 いまひとつ別の論点だが、「研究になぜ公金をつっ込むのか」と述べる人の多くはそれを0円にしろと言っているのではなく、その具体的な対象と程度を問題にしているのではないか。なぜ支出の対象があちらの研究ではなくこちらの研究なのか。なぜ社会保障や防衛に予算を配分するのでなく研究なのか。なぜそれを納税者に返すのではないのか。納税者から強制的に資源を移転している以上、これらはすべて説明を要することだ。自分が公金で養われて当然であるかのような物言いを研究者が繰り返すほど、納税者の反発はより大きなものとなるだろう。

*1:ところで応用研究などでは知的財産権が認められる場合があり、実際それで稼いでいる研究機関や個人もあるはずだが、上の理屈で行けば公金で運営されている研究機関や個人は知的財産権を放棄すべきだろう。

*2:また、この想定のもとでは、たとえ公金で研究を助成したとしてもアンチコモンズの悲劇は生じる。

貿易収支を気にすることが不毛である根本的な理由は

貿易収支を気にすることが不毛である根本的な理由は、それが個々の経済主体の取引を特定の恣意的な仕方で集計した結果として表れる統計量にすぎないからだろう。

 いま、一定の領域を持つ「世界」の中に無数の経済主体が存在している。各々の経済主体は互いに商品を売買する。簡単化のため全ての売買は信用取引で行われるとする。

 たとえば僕が誰かに2000万円で家を建ててもらうと、僕はその誰かに対して2000万円の債務を負う。また僕が誰かに100万円で車を売ると、僕はその誰かに対して100万円の債権を手にする。

 なお僕が住宅ローンを負うことが良いことかは僕の人生計画次第であり、他人には関係がない。また僕が車を手放すことが良いことかも僕の人生計画次第であり、隣のタナカさんには全然どうでも良いことである。

 売買の結果として経済主体には互いに債権債務関係が生じる。「世界」中の全ての債権債務を相殺すれば当然にゼロである。ある一定期間(たとえば1年間)の債権の増分と債務の増分を相殺しても、やはり当然にゼロである。

 ここで「世界」に1本の(別に何本でもいいのだけど)線を引き、その領域を「東」と「西」に区分しよう。そして各領域ごとに、領域内の債権債務を相殺すれば、どちらかには純債権が残り、もう一方に同額の純債務が残る。

 一定期間の純債権の増分(または純債務の減分)はその領域の貿易収支を意味している。「東」領域内の1年間の債権債務増減を相殺した結果として純債権増が生じていれば「東」は貿易黒字国であり、「西」は貿易赤字国である。

  さて、それが増えたり減ったりしたからといって、何なのだろう? 僕の住宅ローンは「西」の貿易赤字の一因かもしれないが、僕がそれを払えるなら問題ないし、払えなかったとしても「西」に住むの他の人に迷惑はかからない。

 貿易黒字や貿易赤字と言ったところで、その中身は個々の経済主体の(広い意味での)債権債務増減の積上げである。それは個々の経済主体の問題であって、「東」や「西」を主語にして論じても得るものがない。

豊田市は都民の仕事を奪うか?

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たとえば僕が東京都に住んでいて、豊田市で生産された300万円のプリウスをローンで買う。この取引は僕にとってもトヨタにとってもよいことだ。なぜなら僕は買いたくて買ったのだし、トヨタは売りたくて売ったのだから。

 もし都民から自動車製造の仕事を奪っているとしてトヨタを批難するとしたらちゃんちゃらおかしな話だ。車も野菜も都内で作ろうと試みるなら都民の生活水準が低下することは疑いない。

 豊田市から自動車を買い、千葉県から野菜を買っているからこそ、東京都民はサービス業や金融業にその分の人手を割くことができる。要するにこれは分業で、どちらが何かを奪っているという関係にはない。

 ここで豊田市と東京都の間に国境を引いたなら、僕がプリウスを買うことは輸入を意味し、300万円のローン債務は貿易赤字の増加となる。けれどたまたま国境を挟んだだけで、僕がプリウスを買うことが突然悪いことになるはずもない。

 外国との取引を閉ざし、隣の県、隣町との取引を閉ざし、他企業との、隣の机のやつとの取引を閉ざせば、僕らは誰からも仕事を奪われない。その代わり世界は少しずつ自給自足に戻っていく。

減損の非対称性

100億円の事業投資を行う次の2つの状況を考える。

ケースA:利益率が2%で無リスクのプロジェクトに100億円を投下する。

ケースB:利益率の期待値が2%であるが、プラスマイナス5%の範囲で利益率が変動するプロジェクト甲に50億円を投下する。残りの50億円を利益率の期待値が同じく2%であるが、プロジェクト甲と逆向きに利益率が変動するプロジェクト乙に投下し、プロジェクト甲のリスクを完全にヘッジする。

 結局ケースA、Bのどちらも利益率2%の無リスク投資である。が、ケースBの場合、例えば投資直後にプロジェクト甲の利益率が▲3%となることが確定し、プロジェクト乙の利益率が7%となることが確定することがあり得る。

  このとき企業は、プロジェクト甲と乙が同一の減損単位に属することを主張できない限り、プロジェクト甲について100億円×▲3%=3億円の減損を計上せざるをえない。一方、ケースAについてはこのような減損は生じない。

 減損というのは要するに将来損失の先取りなのだが、将来利益は先取りされないという非対称性のために、このように経済的実質が同一の2つのケースについて異なる会計処理が生じてしまうことが起こる。*1

*1:ではどうすればよいのかという話だが、事業投資に関して将来予測に基づく情報を財務諸表の本表に開示する発想自体が根本的に誤っているのではないかと僕は最近考えることがある。すなわち減損会計は廃止し、財務諸表の本表では事業資産の価値は常に取得原価によって表示し、代わりに投資から生じる損益の将来予測を注記すればよい。

新収益認識基準またはIFRS15の基本的思考

新収益認識基準が2018年4月から早期適用可能になる。その主な内容はIFRS15やUSGAAPのTopic606と基本的に同一である。ここでは5ステップの適用といった具体的な話ではなく、基準のベースにある思考法を解説する。

 新収益認識基準の中心には「履行義務」という概念がある。これは顧客に財・サービスを提供する義務をいい、契約によって生じる。*1例えば商品の販売であれば商品の引き渡しが履行義務である。*2

 履行義務の価値はその対価の価値に等しい。例えば500万円を顧客から受け取る契約なら、それと交換される履行義務の価値も500万円と考える。これを仮に仕訳すれば資産と負債を同額で建てることになり、純額では価値は生じない。

  対価 500/履行義務 500 (備忘勘定)

 ただし、これらの資産と負債そのものが開示の対象になることはない。あくまで概念的なものであり、実際に仕訳されることも稀だと思われる。開示されるのはポジションの変動から生じる純額である。

 例えば先の状況で履行義務を果たした場合、履行義務が消滅して500万円の資産が純額で生じる。このとき500万円の資産をBS上認識すると同時に、その見合いとして500万円の収益をPL上認識する。

  履行義務 500/収益 500 (義務の履行)

  売掛金 500/対価 500 (資産の認識)

 逆に履行義務を果たす以前に対価を受領した場合、例えば500万円が前払いで振り込まれた場合には負債が純額で生じる。これはBS上前受金として認識し、履行義務を果たした時点で収益に振り替える。

  現金 500/対価 500 (対価の受領)

  履行義務 500/前受金 500 (負債の認識)

  前受金 500/収益 500(義務の履行)

補論1 工事契約

建設工事や受注ソフトウェアなど、従来工事進行基準によって処理されていたものは新基準ではどのように扱われるのか? これは履行義務を部分的に果たしたと言えるかという問題である。

 仮に工事が中止になったとして、すでに作ってしまった部分について対価を請求できるなら、その部分については履行義務を果たしたということができ、現行の工事進行基準と同様に段階的に収益を認識することが認められる。*3

 一方、工事が中止になったとしても定額の保証金しか受領できないような場合には、全体が完成して初めて対価を受け取るための履行義務を果たしたといえるため、現行の工事完成基準と同様の処理になる。

補論2 本人か代理人か

新収益認識基準では、本人として行った取引でなければ収益を総額で認識することは認められない。これは次のような考え方である。

 例えば旅行代理店が飛行機のチケットを手配する場合、旅行代理店の履行義務は旅行客と航空会社を取り次ぐことである。フライトそのものは航空会社の履行義務であって旅行代理店の履行義務ではない。*4

 このとき旅行代理店が飛行機のチケット代の総額を収益として認識することは、相応部分を仕入計上したとしても、認められない。チケット代はフライトに対して支払われるものだからである。

 すなわち、チケット代は航空会社の履行義務の対価であって、旅行代理店の履行義務の対価ではなく、旅行代理店にとって他人の収益である。旅行代理店はただ、チケットを手配した代理人として手数料だけを収益認識する。

*1:法的な強制力があれば必ずしも書面によるものではない。

*2:出荷時点で義務を果たしたことになるのか、あるいは検収時点でなのかは契約の内容次第である。なお日本の新収益認識基準では出荷基準が明示的に認められている。

*3:念のため基準に則して言えば、中止された工事が他に転用できないことも条件となる。

*4:例えばフライトが中止になった場合、その責任を負うのは航空会社であって旅行代理店ではない。

課税と歪み

例えば政府が窓1つに対して年間10万円の税を課すと決める。ある家の主人は税を逃れるために4つある窓のうちの1つを塞ぐ。このとき政府の税収はプラス30万円だが、家の主人の負担は30万円と窓1つとなる。

 この税制はばかげている。というのは初めからこの家の主人に30万円の定額税を課せば、窓1つの分だけ主人の負担を少なくしながら、政府は同じ税収を得ることができるからだ。

 このばかげた税はイングランドに19世紀まで実在した。彼の地の古い建物にはレンガで塞がれた窓をいまでも見ることができる。そして現代の日本にも、残念ながら、このようなばかげた税が存在する。

 例えば特定の投資を実行した場合と他の投資を実行した場合とで税負担が異なる。研究開発を行った場合にのみ減税が受けられるというように。あるいは多額の現預金を保有する企業に課税すべきとの話も近頃聞かれる。

 このような税はその額面を超えて負担を生む。企業は誰かに言われずとも利益を追求するので、もっとも生産性が高いだろう投資を自発的に行う。その意思決定を歪めることは、より生産性の低い投資へのシフトを奨励するのと同じことになる。

 税は人々の行動をなるべく歪めない仕方で課されるべきである。税の三原則の一つとして財政学の教科書でもおなじみのこの原則は、教科書の外ではあまり相手にされる気配もない。

 それどころか選挙のたび、こんな人や企業には特別に減税を設けますよ、という利益誘導が公然と主張される。浅ましいことだ。その減税が生み出す歪みは隠れた負担となり、僕らの経済をいまも蝕んでいる。