課税と歪み

例えば政府が窓1つに対して年間10万円の税を課すと決める。ある家の主人は税を逃れるために4つある窓のうちの1つを塞ぐ。このとき政府の税収はプラス30万円だが、家の主人の負担は30万円と窓1つとなる。

 この税制はばかげている。というのは初めからこの家の主人に30万円の定額税を課せば、窓1つの分だけ主人の負担を少なくしながら、政府は同じ税収を得ることができるからだ。

 このばかげた税はイングランドに19世紀まで実在した。彼の地の古い建物にはレンガで塞がれた窓をいまでも見ることができる。そして現代の日本にも、残念ながら、このようなばかげた税が存在する。

 例えば特定の投資を実行した場合と他の投資を実行した場合とで税負担が異なる。研究開発を行った場合にのみ減税が受けられるというように。あるいは多額の現預金を保有する企業に課税すべきとの話も近頃聞かれる。

 このような税はその額面を超えて負担を生む。企業は誰かに言われずとも利益を追求するので、もっとも生産性が高いだろう投資を自発的に行う。その意思決定を歪めることは、より生産性の低い投資へのシフトを奨励するのと同じことになる。

 税は人々の行動をなるべく歪めない仕方で課されるべきである。税の三原則の一つとして財政学の教科書でもおなじみのこの原則は、教科書の外ではあまり相手にされる気配もない。

 それどころか選挙のたび、こんな人や企業には特別に減税を設けますよ、という利益誘導が公然と主張される。浅ましいことだ。その減税が生み出す歪みは隠れた負担となり、僕らの経済をいまも蝕んでいる。

価格理論と駒場の思い出

昔授業を受けた先生が教科書を出したのを本屋で偶然知った。学部二年生の夏、初めて履修した経済学科目だった。社会科学の方法に疑念を持っていた僕は、集合論と解析学を使った演繹的な議論に強く興奮を覚えた。

 例えば経済学の仮定する個人は「合理的経済人」などとバカにされるけど、実のところそれは「可能な選択肢を好ましい順番に並べることができ、そのときに選択肢のループが生じない」という程度の仮定でしかない。

 その仮定を認めれば、ほぼそれだけで個人の選好を関数として表現することが正当化できてしまう。個人の行動は関数の最適化として表現され、市場の需給や均衡が常に仮定を明確にしながら簡潔な数式で描き出される。

 経済ニュースを読むのが目的の人にはGDPも物価指数も出てこない議論は退屈かもしれないけど、経済学の中心は何と言っても価格理論であり、これを学ばずに経済学を体系的に理解することは考えられない。

 価格理論を学び始めた当時、僕がいちばん読み込んだのは奥野先生や武隈先生の教科書ではなく、駒場の生協で買った簡易製本のレジュメだった。明快・簡潔、それでいて論理の質を犠牲にしていないのが良かった。

 僕が買ったレジュメはとっくにボロボロになってどこかへやってしまったけれど。最近本屋で見かけた、冒頭の竹野先生の教科書はそのころのレジュメがもとになっているようだ。

 今の僕は少し考えが変わって、ワルラス的な価格理論では抜け落ちてしまう調整プロセスとしての市場をもっと大事にしたいと思っている。それでも体系的な社会科学を可能にした価格理論の視座は不滅に違いないと思う。

「生産狂時代」と在庫循環

grapee.jp

上のリンクは「生産狂時代」という漫画で、最近ツイッターで流行した。企業が従業員の労働時間を増やして生産を拡大するが、売上はどんどん下がってしまう 。働き過ぎで商品を買う時間が無くなったという真相だった……というストーリーだ。

 もちろん実際にはこんな結末は起こらない。生産を拡大しているのに売上が下がっているならば、企業はそれだけ在庫を積み増していることになるからだ。そのまま売れない在庫を増やし続ければ資金繰りがつかなくなる。

 このため過剰在庫を抱えた企業はそれが捌けるまで生産を縮小せざるをえない。従業員の残業は短縮される。十分に在庫が捌けたときに再び生産は拡大する。労働時間は増減しつつも、ある幅に収まるだろう。経済はまことに良く出来ている。

負債のパラドックスの正体――公認会計士試験で学ぶ企業会計

自社の倒産可能性が前期末より高まった場合に,自社が発行した社債の時価評価を当期末の財務諸表に反映したとすると,期間利益にどのような影響を及ぼすと考えられるか,簡潔に説明しなさい。ただし,評価差額を純資産の部に直入する処理については言及しなくてもよい。(平成26年論文式試験会計学(午後)改題)

負債を時価評価する場合、倒産可能性が高まると利益が発生する

答えを先に述べよう。倒産しそうな企業の社債は債権者が手放したがって安売りされる。つまり社債の時価が下がる。社債を発行した企業の側からこれを見ると負債の金額が減ることになる。

 貸借対照表(BS)に計上されている資産は債権者か株主かどちらかの取り分になる。債権者の取り分である負債が減れば株主の取り分である純資産が増加する。株主の取り分の増加とはすなわち利益にほかならない。以上おわり。

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 企業の存続が危うくなることで利益が生じるというのは一見すると直感に反している。そのためこの現象は「負債のパラドックス」と呼ばれていて、会計基準上も社債の時価評価は認められていない。

 でも実のところ、不思議なことは何も起きていない。これから説明しよう。

設例:期首の簿価BSと危険な投資計画

ある企業の期首の財務諸表に資産が60、負債が50、純資産が10計上されている。負債の償還期限は1年後、期末日の翌日とする。このまま何事もなく安全堅実に1年が過ぎれば、債権者の取り分は50のままだ。*1

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 しかし純資産が少ないと考えた企業は、一発逆転のために次のような投資計画を立てた:成功すれば1年後に資産が50増えるが、失敗すれば50減って、負債が償還できなくなり倒産する。成功する確率と失敗する確率は50%ずつとする。*2

1年後の簿価BS:投資が成功するケース

投資が成功する場合には1年後の資産は110に増える。負債の金額は変わらないから債権者の取り分は50で、残りの60が株主の取り分となる。

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1年後の簿価BS:投資が失敗するケース

一方、投資が失敗する場合には1年後の資産は10まで減る。この10が債権者の取り分だ。負債は50あるけど、株主は有限責任しか負わないから、債務超過分の40は踏み倒されてしまう。株主の取り分は0。

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期首における1年後の期待値=期首の時価BS

したがって、1年後の債権者の取り分の期待値は30、株主の取り分の期待値は30となる。時価が期待値通りに形成されているなら、期首の時価BSは下図のように描くことができる。何事もなく1年が過ぎる場合と比べて、債権者から株主に取り分が20だけ移転しているのが分かるだろう。

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株主は実際に得している

移転した金額20は債務超過の期待値だ。*3株主は有限責任しか負わないので債務超過のリスクを債権者に押し付けることができる。そのため株主は企業が倒産のリスクを取ることで実際に得をする。負債の時価評価により生じる利益はこの事実を反映している。ここにパラドックスはない。 *4

解答

自社の倒産可能性の上昇は社債の時価評価を下落させる。これを財務諸表に反映すれば負債の減少と同額の純資産の増加が生じるため、期間利益は増加する。*5

*1:簡単化のため社債は額面発行で利息はないものとする。またリスクフリーレートは0とする。

*2:投資計画の前後で1年後の資産金額の期待値は60のまま変化がない。このように問題を設定することで、債権者と株主のあいだの取り分の移転だけを考えることができる。

*3:投資が成功した場合は債務超過0、失敗した場合は債務超過40、その期待値は20。

*4:負債を時価評価しないことが理論上正当化できるとすれば、それは負債のパラドックスではなく継続企業の前提によるように思われる。

*5:なお問題の最後の一文は時価評価が期間損益を経由せずに純資産に直入される処理を排除するためのものだ。ややテクニカルな仮定であり、ここではあまり気にしなくて良い。

多重課税のこと

商品を仕入れて販売している単純な会社で、海外との取引がなく、借入れもなく、在庫を持たず、従業員もいない。この会社が支払う法人税は(売上ー仕入)×法人税率となり、消費税は(売上ー仕入)×消費税率となる。このような単純な会社のみから成る世界では法人税と消費税の区別は消滅する。

 同じ課税ベースに同じ仕方で賦課され、納税義務者も等しいのだから、税収の総額を変えないように税率を変化させたとしても、税負担の帰着を変化させることはできない。法人税だから会社に負担が帰着するというわけではなく、消費税だから消費者に負担が帰着するというわけではない。*1

 ここで消費税と法人税をともに課すことは多重課税といえるだろうか? 多重課税といえるとして、何か実際上問題があるだろうか? 税務コストはゼロではないはずだから、これらの税を統合することで社会全体からコストを削減することはできるだろう。*2

*1:法人税と消費税が決定的に異なる点は法人所得か消費かということよりも海外取引の扱いにある。冒頭で海外との取引がないことを仮定したのはこのためである。法人税の引き上げが企業の海外移転を誘発するのも、課税ベースが企業所得だからというより、法人税が源泉地主義だからだと考えられる。

*2:現実の世界でも法人税を仕向地主義に転換すれば法人税と消費税の一本化の可能性が見えてくる。これは大真面目に検討されるべきことだと僕は思う。

余剰資金よりもむしろ利益剰余金に課税する方がマシである

news.yahoo.co.jp

内部留保に課税するなら貸借対照表の右側(利益剰余金)ではなく、左側(資産)の余剰資金に課税すべき、という意見を見かける。僕の見解は逆だ。僕はあらゆる内部留保課税に反対だが、あえて課税するなら余剰資金ではなく、利益剰余金を課税ベースとしてなされるべきだと考える。

 余剰資金に課税してはならないのは、それが企業行動を歪めるからだ。余剰資金に課税した場合、企業は余剰資金を減らすだろう。それは企業が、例えば資金繰りに窮するリスクを高める。言い換えれば、余剰資金に課税することは、企業が過大なリスクを取ることを奨励することを意味する。

 税制が企業行動にもたらす歪みは冒頭の記事でも検討されている。もっとも余剰資金課税の擁護者は、まさにそれこそが課税の目的なのだ、と述べるかもしれない。日本企業はリスクに対応するための適切な水準を超えて、過度に余剰資金を抱えているのではないか。それを吐き出させることに意義があるのだ、と。

 そこで冒頭の記事は「きちんとした実証研究が必要なのではないか」と結ばれている。しかし僕が強調したいのはむしろ、統計的分析から日本企業の余剰資金が総体として過大であることを示しえても、全ての個別企業に一律の仕方で余剰資金税を課すことは擁護できないということだ。現実にはある企業の余剰資金は適切であり、別の企業では過大である。統計量がある傾向を示したとしても、それは課税の政策的含意を導かない。

 それならば、過大な余剰資金を持つ企業にだけ課税されるようなルールを考えれば良いのではないか、などとは言わないで欲しい。それこそ不可能というものだ。無数の要因が適切な余剰資金の水準に影響する。それに対する判断は、一部は技術的なものであり、他の一部は経営者のヒューリスティクスである。余剰資金の水準が適切かは、結局のところ、その企業がマーケットの中で高いパフォーマンスを発揮し続けるかどうかによって答え合わせをするほかない。*1

 僕が余剰資金課税よりも利益剰余金課税がマシだと評価するのは、後者のほうがマーケットの判断を生かすからだ。利益剰余金に課税した場合、企業は課税を逃れるために配当を増加すると予想される。投資家はその配当を、資金をより有効に活用すると彼が考える企業に投下するだろう。利益剰余金に対する課税が直接的に企業の設備投資を引き起こすと考えることはばかげているが、マーケットの判断を通した資本利用の効率化によって余剰資金が減少し、有効な設備投資が増加するのは考えられることだ。

 ただし、そのような資本利用の効率化が生じるには、現時点で資本利用が効率的でないことが前提である。もしすでに資本利用が十分に効率的であるなら、投資家は配当された内部留保を、単にもとの企業に再投下するだろう。それは単にコストを増やすことになる。また希望の党は消費税の代替財源として内部留保課税を考えているようだが、上記の効率化のメカニズムが成功した暁には、内部留保からの税収を期待することはできなくなる。たばこ税が喫煙者を減らしてしまうのと同じことだ。内部留保課税は消費税の代替財源になりえない。

*1:同様に設備投資減税や研究開発減税なども存在してはならないと僕は考える。企業が特定の何かに支出すべきことや別の何かに支出すべきでないことは政策に決定できる領域ではない。税制が特定の企業行動を引き起こしてはならない。